G74.(夫婦二人の山歩き)の夫の歴史(3)

今回は、G54.夫婦二人の山歩きについて(2)に掲載している文書(「夫婦二人の山歩き」の歴史)のうち、大阪府大を卒業して日立製作所に入社した時代の下記文章を、アルバムから見つけ出した昔の写真を付けて補完します。これは二人が出会う1965年7月30日以前の記録です。知り合ってから以降の結婚前の記録は次号に回します。
一俊の生立ち
日立に入社してからは、もっぱらテニスに熱中、大矢さんとペアで頑張っていて、県大会にも出場していた。大学の寮時代に培った卓球では、部の団体選手として日研で優勝して全社大会にも出場したことがある。
入社二年目の冬からはスキーを教わってはまり込み、日曜日ごとに仲間と猪苗代に通った。5月の連休や夏休みなどには春スキーにも出かけ、月山、八甲田、万座、志賀高原、八幡平、蔵王などに遠出していた。
こんな中で登山の記憶はおぼろげだが、アルバムを引っ張り出してみると、寮仲間と安達太良山、裏磐梯、尾瀬ヶ原、吾妻山、大菩薩峠などに出かけており、山小屋3泊の飯豊連峰縦走もしていた。

1.日立製作所入社
 1962年4月に日立製作所に入社、4月2日に日立市の高台に建つ小平会館で学卒700人余の入社式が挙行された。入社記念写真の最前列に座している34名は会社役員、後ろに5列並ぶのが新入社員、1枚では全員入りきらず、4回に分けて撮影された。
(1962年学卒入社式記念写真:小平記念館前(1/4)1962/4/2)
 学卒新入社員は日立工場の海側の会瀬海岸に建つ保養所に宿泊しながら2ヶ月間集合教育が行われた。通称〇習と呼ばれていた集合教育を受ける新入社員は、講堂での講演や映画、バスに乗っての工場見学など愛社精神を植え付けられた。
 大阪府立大学卒業の先輩に、日立市内の料亭で歓迎会に招待もされたこともある。
集合教育同室メンバ:会瀬海岸1962/5)
(府立大学同窓歓迎会1962/4)
2.日立研究所水力実験所配属
 2ヶ月の集合教育が終わると配属先が決定されて、私は26名で日立研究所に配属になった。
(日立研究所入所記念1962/6/1)
2.水力実験所配属
 日立研究所での集合教育後、希望通り水車の研究開発をする第3部32研究室(水力実験所)に配属になった。水車の開発研究と言っても、主な仕事は設計部が受注し設計した実物水車の相似模型を運転して性能を実験確認するのが主な仕事だった。それでも、合間に行った研究実験結果を纏めて、定年退職間際には博士号の称号を受けることができた。
(日立研究所第3部水力実験所に配属1962/7/)
 水力実験所では、一同揃って外に出かけて親交を深める課会が行われることが多くあった。最初は那須に出かけて温泉宿に泊まり、那須高原ハイキングをした写真が残っている。
(課会:温泉神社1962/11)
(課会:那須高原1962/11)
 日立の川尻海岸でボート遊び、地引網を引いて、収穫した魚や蟹は希望者がくじ引きで持ち帰った。
(課会:川尻海岸地引網)
 実験所内の独身者がチョンガー会を組んで、ハイキングなどに出かけたこともあった。
(課チョンガー会:竜神峡)
3.寮生ハイキング
 独身寮には顔の広い男がいて、女子寮に声をかけて合同で楽しいハイキングを企画してくれたこともあった。
(女子寮との合同ハイキング:勿来の関1962/10)
(女子寮との合同ハイキング:五浦海岸1962/10)
 大阪府立大学同期の森本君とも話があって、正月2日に日立の最高峰高鈴山623mに登って、鉱山採鉱跡の荒れ地を歩いたりした
(高鈴山ハイキング1963/1/2)
 翌年8月には、大学時代の寮仲間安藤君と、2泊3日で安達太良山から鉄山、箕輪山、鬼面山、東吾妻山、一切経山まで縦走した。安藤君はテニスや卓球の仲間でもあった。
(安達太良山頂1963/8/3)
(鉄山・馬の背)
(一切経山から吾妻小富士)
(吾妻小富士から樋沼・東吾妻)
(一切経山頂から東吾妻・東大巓方面)

(五色沼と家形山)
(家形ヒュッテ)
(五色沼と一切経山)
(安達太良山から吾妻連峰1963/8/3〜5)
 その次の年1964年の5月連休には、猪苗代湖の表側から磐梯山に登って裏磐梯に抜け、裏磐梯高原の檜原湖や秋元湖、五色沼を見て歩きまわった。
(虹柳館にて)
(虹柳館のきみえさんと)
(裏磐梯から檜原湖・小野川湖・秋元湖を望む)
(秋元湖)
(五色沼/毘沙門沼)
(五色沼/弁天沼)
(五色沼/瑠璃沼)
(檜原湖)
(檜原湖)
(銅沼)
(五色沼/青沼)
(磐梯山・裏磐梯高原1964/5/1〜3))
 次の年1965年の6月には、テニス仲間の藪君と尾瀬ヶ原ハイキングを楽しんだ。

(尾瀬ヶ原)

(尾瀬ヶ原)

(ミズバショウ)

(三条の滝)

(白砂湿原)

(池塘・浮島)

(尾瀬沼)

(長蔵小屋・燧ヶ岳)
(尾瀬ヶ原1965/6/11.12.13)
 その年1965年の7月には、寮委員会主催のバス旅行で磐梯吾妻スカイラインを走ってから裏磐梯のハイキングを女子寮の仲間と一緒に楽しんだ。
(スカイライン)
(弁天沼)
(腹ごしらえ)
(荒野の決斗)
(吾妻スカイラインバス旅行1965/7/16.17)

4.テニス
 日立工場には知新寮、知明寮、諏訪台寮の3つの独身寮があり、テニスや卓球、野球などの対抗戦をやっていた。
(寮対抗戦:表彰式)
(寮対抗戦:賞品)
 中でも私はテニスに身が入っていて、会社の総務にお願いして知新寮にもテニスコートを作ってもらって、休日には朝から晩までテニスの練習に励んだ。
(硬式テニス練習1964)
 1964年度の県大会では、大矢君とペアーで出場して3位入賞した。
(大矢君とペアー1965/4/16)
(勝ったー!1964/10/)
 冬になると休日には寮仲間はみんなスキーに出かけたが、私は生まれてからスキーを見たこともなく、2年間はスキーにそっぽを向いていたが、3年目の冬に国体にも出場していた大河内君が指導してくれると言うのでやってみることにした。大河内君と一緒に市内のスポーツ店に行ってスキー用品一式を買いそろえ、1965年1月15日夜行で猪苗代スキー場に向かった。下のゲレンデでおそるおそる滑り初めをし、何とかなりそうとリフトに乗って上のゲレンデに上がった。上のゲレンデを何度も滑っては登り返して練習し、下のゲレンデとの間の崖のところでは横滑りを繰り返しながら下って段々と急坂にも慣れてきた。
 二日滑って面白いスキーの味を知り、土日は毎週のように猪苗代スキー場に出かけることになった。金曜日夜に日立駅を出発し、土曜日の朝猪苗代駅に到着、日曜日夕方猪苗代駅を出発、深夜に日立駅に到着するJR銀嶺号がスキーに便利で有難い交通手段だった。
(初めてのスキー1965/1/15.16.17)
(二回目のスキー1965/1/30.31)
 寮の委員会でも岳温泉などへのバス旅行を計画してくれて、猪苗代以外のところでも滑ることができた。
(寮スキー旅行:岳温泉1965/2/6.7)
 (猪苗代スキー場1965/2/14.15)
 5月連休には月山にスキーを担いで登って雪山の景色を楽しみ、滑って下る春山スキーにも参加して、新しい山歩きの楽しさを味わった。
(月山登山)
 (月山登山)
(月山山頂小屋)
 (月山山頂)
(月山登山1965/5/1.2.3)
 次の(4)は、1965年7月30日にわが夫婦二人が知り合ってから、1968年4月21日に結婚するまでの独身寮時代の写真を紹介します。今回の頭の囲い文の中で、今回写真が出なかったところが出てきます。


inserted by FC2 system