J72 2001年11月の山歩き(2) 仏頂山-高峯

1.動 機 
 今回はシモン夫妻に大矢夫妻と我家の三夫婦の和やか山歩き、笠間の楞厳寺から仏頂山に登って高峯まで縦走、五大力堂迄下るコースだった。

2.登山日、山域
 2001/11/19(月)仏頂山、高峯

3 山行記録

3.1熊野山2001/11/11(日)
 我家発7:10=7:55藤田信号=8:00古内小交差点=8:15笠間警察署前コンビニ集合=9:00五大力堂P=9:30楞厳寺P9:45 ー11:00仏頂山(昼食)12:00ー13:20高峯14:25ー15:05五大力堂P15:15=15:35楞厳寺P15:45=我家着
(楞厳寺〜仏頂山〜高峯〜五大力堂 地図)
 笠間市内のコンビニ前に8時過ぎ集合、先ずは下残地点の五大力堂の駐車場に移動、ここに1台置いて2台で楞厳寺の駐車場に移動して歩き始めた。
 楞厳寺の駐車場すぐ近くに茅ぶきの山門があり、脇に「重要文化財 楞厳寺山門 室町時代 /HITACHI」の標識が立っていた。
(楞厳寺山門)9:36
 その脇には楞厳寺とこの山門の説明板を嵌め込んだ石碑が立っていた。
(楞厳寺山門前)9:36
 その説明板の内容を下に転記しました。読み切れない文字は〇で表示しました。
楞厳寺
 宗派 臨済宗妙心寺派
 創建の時期は明らかではないが、○○と律宗であったといわれ、鎌倉時代の中頃、笠間初代城主笠間時朝が禅宗として再興し笠間氏の菩提寺として、千手観音立像を寄進した。この仏像は約二メートル一〇センチの大きな十一面観音像で、桧材、寄木造漆箔、玉眼のすぐれた彫刻である。江戸時代の初期、火災で本堂などを焼失したが、山門だけは焼け残った。この山門は、切妻造り茅ぶきで柱は六脚あり、〇に花、宝珠、宗形などが彫られているが、左右対称ではないなどの特色があり、室町時代の貴重な建物である。境内裏山に寄生するヒメハルゼミ(姫春蝉)は関東地方では珍しく、日本での北限寄生地である。
        笠間市
(楞厳寺説明板)9:37
 寺の裏からの道を歩いて楞厳寺から仏頂山まで1時間15分。途中で歩いている写真はなく、残っているのは山頂近くまで登ったところで撮ったと思われる紅葉の写真2枚とリュウノヒゲの青い実の1枚だけ。
(紅葉 )10:45
(紅葉)10:47
(リュウノヒゲ)11:01
 仏頂山山頂で1時間も昼食会を楽しんだのに、この山頂での写真はなく、山頂すぐのところに立っていた「関東ふれあいの道」標識だけ。岩瀬町池上まで4.2km。
 このコースには案内板が整備されていて、「関東ふれあいの道」の標識が次々に現れた。写真にもこの案内標識を撮ったものが多く、次の写真も仏頂山頂から1.2km岩瀬町池上まで3.0kmとある標識。鍬柄峠への二点破線への分岐点と思われる。
(岩瀬町池亀4.2kmー仏頂山頂0.2km)12:03
(仏頂山頂1.2kmー岩瀬町池亀3.2km)12:30
 次には真二つに切り分けられたような岩の写真。この2年後2003年10月「Q102.大菩薩嶺・瑞牆山・茅ヶ岳」で瑞牆山に登った時に巨大な桃太郎岩という二分割岩を見たことがあり、この写真を見た時、こんな岩かと思ったが、色々NETを調べると、YAMAP「仏頂山ー奈良駄峠ー高峯往復コース」にこの岩の写真が載っていた。これに載っている写真には、脇に「桃太郎石」と書かれた標識が立っている。この捨身を見ると、立札と桃太郎石の高さが同じ程度なので、桃太郎石は岩では呼べない大きさのようです。
(桃太郎石)12:29
 桃太郎石まで茂みの中の道を歩いていたが、そのすぐ先で高峯の山容が綺麗に見えるようになったようで、高峯の写真を3枚続けて撮っている。二枚目の写真に写っているが、NETで見るとこのコースは階段の多い道らしい。
(縦走路からの高峯)12:34
(階段の多い縦走路)12:34
(奈良田峠と高峯)12:35
 続いて出てくる標識は仏頂山から1.7km歩いた奈良田峠の手前、北の茂木町上小貫への分岐点。
 そのすぐ先、奈良田峠を過ぎた仏頂山から1.8km、高峯まで1.2kmの地点の道標。なんと高峯方向は関東ふれあいの道にはなっておらず、分岐道の南飯田5.6km方向が関東ふれあいの道になってる。南飯田を地図で調べたら、池上のはるか先、桜川市にある町名だった。
(仏頂山1.7km・岩瀬町池亀2.7km・茂木町上小貫2.0km)12:41
(高峯山1.2km・仏頂山1.8km・南飯田5.6km)13:00
 次の山の写真、時間から見て奈良田峠から撮ったものと思われ、写っている山は高峯の右先にある雨巻山と足尾山でしょう。
 仏頂山から高峯までの尾根道は紅葉した木が茂る森の中を通る整備された気持ちのいい道だったようだ。
(奈良田峠からの雨巻山・足尾山)12:49
(紅葉の林道歩き)12:52
 撮影時刻から見て高峯の山頂から撮った展望写真。南方の難台山から吾国山、加波山、筑波山などが写っている。
(高峯山頂から難台山・吾国山)13:24
(高峯山頂から加波山・筑波山)13:25
 次の標識には仏頂山から3.2kmとあり、高峯山頂を過ぎたところと思ったが、NETで調べると、この標識の上に、この分岐標の上に高峯519.8mの標識が取り付けられた写真あり、更に、標識の下に国土地理院の標柱と三角点標識が写っている写真もあり、これは高峯山頂の写真らしい。
(県道2.0kmー仏頂山3.2km)13:29
 高峯の少し先にパラグライダーの発着場にもなっている見晴らしのいい高原があり、ここからの展望写真が残っている。桜川市の平地の向こうに見える山々は愛宕山293mから難台山553m、吾国山518.2m、加波山708.8m、筑波山877mと続いている。
(パラグライダー発着場から:愛宕山・難台山・吾国山ー加波山・薄く筑波山)
(パラグライダー発着場から:愛宕山・難台山・吾国山・加波山、拡大
 最後にやっと人物が入っている写真が初めて出てくる。
(パラグライダー発着場から:加波山・筑波山)14:04
(下山開始:愛宕山・難台山・吾国山)14:25
 何時もの花写真も、高峯から下り始めて始めて撮り始めている。
(ツリガネニンジン)14:26
(フデリンドウ)14:26
(ノアザミ)14:27
(マーガレット)14:42
 五大力堂迄下って、五大力菩薩像を拝み、写真を撮っている。五大力堂菩薩像についてはNETでにも情報が多い。茨城県教育委員会のHPには

  木造 五大力菩薩像 5躯
 五大力菩薩像の彫刻として、平安時代に制作された5躯がすべて揃って現存するものは、全国的にみて本像が唯一と考えられ、仏教史や仏教美術史上、非常に貴重なものです。像高は中尊坐像が135.5cm、4?の立像が154.1〜167.1cmです。
 中尊像の仏像の着衣である衣文(えもん)の表現の仕方や、光背(こうはい)の宝相華文(ほうそうげもん)などから、平安時代後期の制作と判断されます。4躯の立像のうち右内側像の背板には、治承2年(1178)の年紀を含んだ墨書(ぼくしょ)があります。
 五大力菩薩は、奈良仏教の鎮護国家の思想と関係が深く、仏教を敬う国王に対して使わされ強大な力でその国を護るとされ、全国的にみて希有な尊種です。
 怨敵調伏(おんてきちょうふく)を願って造像されることがあり、地元では平将門の伝説と結びつき、将門を調伏するために造像されたと伝えられてきました。
 撮った写真には残念ながら4体しか写っていなくて、左端の無長十力吼立像が写っていなかった。
(五大力堂:竜王吼菩薩・金剛吼菩薩)15:08

(五大力堂:無量力吼菩薩・雷電吼菩薩)15:08
 岩瀬町教育委員会作成の五大力堂の説明板の写真を撮ってあって、概要は下記。詳細な解説がついているが、これを転記するのは骨が折れるので、興味ある方は写真を拡大して読んでみてください。
 町指定有形文化財 五大力菩薩像 五躯
・指定年月日 昭和53年7月5日
・所在地 岩瀬町大字池亀字五大力412の2番地
・管理者 天台宗吉祥院   ・池亀区代表区長
・時代 推定平安時代後期(胎内墨書に治祥2年定長作の銘あり)
・像高 金剛倶吼座像(130cm)・竜王吼立像(160cm)・無長十力吼立像(150cm)・雷電吼立像(152cm)・無量力立像(157p)
・光背 中央像二重円光背(190cm)
  #解説
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(町指定有形文化財 五大力菩薩像 五躯)15:06
 最後の写真は下山後の撮った高峯の写真です。
(高峯)15:14

 次は、2001/11/21(水)夫妻二人で歩いた生瀬富士の山行記録を報告します。


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