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(久慈サンピア日立:15:00) | (河津桜の並木) |
遠くから見ると枝に咲いている花は黒っぽくて桜の花には見えなかったが、近付いてみると、色弱の私にもはっきりとピンクの花びらが見えてきた。
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(河津桜の並木) |
まだ咲き始めで蕾が多い状態だったが、開いた花は釣鐘状ではなく花びらが一枚一枚分かれていて、寒緋桜ではなくて
河津桜であることを確認できた。
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(河津桜) |
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(河津桜) |
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(河津桜) |
綺麗な河津桜を眺め、シャッタを押しながら歩道の中ほどまで歩いてから、来た方向を振り返ってシャッタ押した。
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(河津桜の並木) |
歩道を歩いた先は国道245号の歩道になり、横の川を渡る橋があった。橋の欄干には「しんせがみばし」の名板があって、この川が瀬上川と分かった。
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(新瀬上橋) |
国道の向こうには桜並木は見えないので橋を渡ったが、橋の中ほどまで来て国道の向こうを見ると、この瀬上川の太平洋への出口にはゲートが造られていた。今は開いているが、どんな時に閉められるのでしょうか。
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(瀬上川河口のゲート |
橋を渡ったところで国道245の南方を見ると、すぐ先にスタンプラリー1のおさかなセンターの青い建物が見えていた。
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(R245号沿い南方) |
瀬上川の右岸(下流側から見ると左)の歩道の外側は久慈サンピア日立のグランド、こちら側にも歩道沿いに河津桜の木が並んでいた。
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(サンピアグラウンドの河津桜並木) |
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(サンピアグラウンドの河津桜並木) |
並木は歩道側からは見ると黒っぽかったが、広場の中に入って反対側から眺めると、河津桜のピンクの花が綺麗に見えて、また何枚もシャッターを押した。
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(河津桜) |
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(河津桜) |
中ほどの河津桜の間に大きな二段作りの石碑があって、上の岩塊には「昔流甦台地」の文字盤が埋め込まれていて、下の土台には昔の久慈川沿いにあった漁港の様子を描いた絵が埋め込まれていた。
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(大きな石碑:昔流甦台地) |
石碑の裏側に回ると、この石碑の由来が彫り込まれていた。
久慈川レリーフの碑文
碑の建つところこの地は、久慈川口を五百メートルほど遡った川の中心地でありました。往時、久慈川はレリーフに写した通り、市街地の軒下を洗うように流れて海に注いでおり、古くから漁港として機能し、地域の産業経済を発展させ住民の生活を安定させた中心地でした。
一九六〇年代に入り、戦争による疲弊は国民の総力によって回復し、高度経済成長期を迎えました。産業の興隆は地域大型開発を進め、わが町にも漁港に隣接した商港が建設されることになりましたがその計画には、久慈川口の付替えと、市街地に接する川の埋立が含まれていたのであります。
住民の生活を支えた川、文化を生んだ川、人を育てた川、風致の核となってきた川、どれ一つとってみてもそれは住民みんなの川でした。心にふるさととして大切にし、誇りにしてきた川です。私達は、この地から久慈川が消去ることに愛惜の念を禁じえませんでしたが、工事は進み「昔流甦大地」の通り、川は十二・八ヘクタールの大地と化しました。この大地を拠点に久慈地区の再開発は進み、久慈川の天恵転じて新生久慈町の誕生を約束することになったのです。久慈地区再開発協議会は、碑を建てこの地域変貌の歴史を記すものであります。
平成十一年四月吉日 久慈川口埋立開発事業 竣工記念碑建設実行委員会。
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(昔流甦台地) |
「昔流甦台地」の石碑から先の桜の樹は河津桜ではないのか、樹高は高いがまだ花の蕾もなくさっさと歩道を歩いて行くと橋に辿り着き、橋の上から瀬上川の下流側の景色の写真を撮った。河津桜並木を撮った積りだったが、瀬上川ばかりが目立つ写真になっていた。こちらの橋の欄干には昭和60年3月完成の表示があった。
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(上流側の箸の上から瀬上川) |
30分ほど桜見物を楽しんで久慈サンピア日立の前の駐車場に戻り、途中スーパで買物して我家に帰った。
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(久慈サンピア日立前:15:25) |
もっと早く報告する積りでしたが、何故か集中できず、やっと報告にこぎ着けました。次は3月17日に、またここ瀬上川まで出かけてきた満開の河津桜の様子を報告します。