k34 諏訪梅林

1.動 機 
 前報の河津桜を見た後、市内を走り回った後、日立市中部にある諏訪梅林に行って咲き残りの梅の花を楽しみ、諏訪梅林の歴史についても復習させてもらった。
 諏訪梅林の由来
江戸時代末期、当地にあった水戸藩所有の『梅の木御林』がはじまりとされる。明治時代以降は国有となり、梅の名勝地『諏訪梅林』として保存されてきたが、明治40年に旧鮎川村が払い下げを受け、今日に至っている。
現在は鮎川沿いに県道日立常陸太田線をはさんで南北に分かれ、早春の梅、春の桜、夏の川遊び等、四季を通じて数多くの市民が訪れる憩いの場となっている。

2.データ
a)山域:日立市中部
b)撮影日:2023年3月17日(金)
(諏訪梅林MAP)

3.山行記録
 久慈サンピア日立の河津桜を堪能した後、紅寒桜の並木を探して空しく日立市中を走り回ってから、諏訪梅林の第一駐車場に車を入れた。とっくに梅の盛りは過ぎていて、止まっている車は一台もなかった。
 駐車場から県道の向こうの南側梅園を眺めると、白い花を残した梅の木が雲のような筋を作っていて、なかなかいい眺めになっていた。
(駐車場から南側梅林10:34)
 県道を渡って道沿いから南側梅園を横から眺めると、やはり雲のような白梅の筋の様子は同じだったが、枝先に白い花をちらほら残した手前の梅の老木や黒い岩の記念碑などに惹きたてられているように見えた。
(県道沿いから南側梅林)
 園内に入ると、この老木の枝先の白い花がはっきりと見え、見える黒い岩多くなり、白梅群の方が引き立て役の感じに見えていた。
(石碑の多い諏訪梅林)
 下の地面には白梅の花びらが散り敷いていた。
(散り敷く梅の花びら)
 老木に近付いて眺めると、咲き残りの梅の花も結構綺麗。老木の間にはところどころ近年植え付けられたらしい若い梅の木があり、これらの脇には寄贈者の名を記したらしい木柱が立っていた。全部読み切れる木柱は「諏訪壮青年梅友会結成35周年 平成17年11月吉日」
(林立する記念樹標柱)
 入口近くには「烈公手植えの梅」が木枠で囲まれて立っていた。この梅の木は2代目とのことだが、数本新枝も伸びだしていて、白い花を咲かせていた。
天保3年(西暦1832年)、水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)が、この地に梅の木を数百本株植栽し『梅の木御林』を造営したおりに、烈公自ら手植えを行ったと伝えられている。本来の株は枯れ、現在のものは二代目。
 鮎川沿いの若い木の白梅、綺麗に撮れた。
(烈公手植えの梅)
(白梅)
 県道近くにあった岩の一つには、北面に唄が掘り込まれていて、北面には「塚節歌碑建設の由来」を書いた石板が嵌め込まれていた。
(長塚節歌碑の裏面)
 長塚節歌碑建設の由来
 長塚節は明治十二年四月 茨城県岡田郡田村国生(現在結城郡石下町大字国生)に誕生 後年アララギ派歌人として活躍し また長編小説「土」を発表して作家としての名声を博した
 明治三十五年三月二十四日 節は はるばると烈公ゆかりの当該諏訪梅林を訪れ碑面の歌を残している
 雪降りて寒くはあれど梅の花
  散らまく惜しみ出でて来にけり
 自然をこよなく愛し春にさきがけて開く梅の花に心ひかれてここまで旅して来た節の気迫と情熱に深い感動を覚える
 今年 節の生誕百年 諏訪来遊七十七周年に当たり諏訪の人々は由緒ある景勝の地である当地に節の歌碑を建設して多年の念願を果たした
 ここに市民運動実践協議会 梅友会及び地域有志各位の多大のご尽力と協賛に感謝しつつ建碑の由来を記して後世への記念とする
    長塚節歌碑建設委員会 会長 助川長蔵
(長塚節歌碑アップ)
 老木の格好いい咲き残りの花を見つけては、何枚もシャッタを押した。
(白梅)
 白梅越しに第一駐車場に止めた我家の車と、北園の休憩舎が写っている。
(白梅越しに上段の梅園の休憩舎と第一駐車場)
 北園入口に立っている「諏訪梅林」の標識が写っているが、その上の北園にも綺麗な梅の花は残っていないようだ。
(白梅越しに諏訪梅林標識)
 鮎川沿いに元気のいい梅の木が並んでいて、枝先迄梅の花を咲かせていた。下には「日立市公園里親制度」の立札が立っていて、
公園名 諏訪梅林
この公園は市との協定により、私たちがきれいにしています。
ボランテイア団体名 読み取れないが諏訪壮青年梅友会
(白梅の樹と「日立市公園里親制度」立札)
 鮎川沿い右側辺りには紅梅が目立っていた。
(紅梅)
 緑の杉林をバックに紅梅のアップ写真を撮ってみました。綺麗でしょ。
(紅梅アップ@)
(紅梅アップA10:45)
 満開の久慈サンピア日立の河津桜と、咲き残りの諏訪梅林の梅の花を楽しんで大満足でした。
 次は、今日撮った我家の庭の花々の写真を報告をします。



inserted by FC2 system