A56.東海村の文化財(7)

1.動 機
 梅雨入り前の貴重な晴日和、山も呼んでいるが御法度、また東海の文化財あさりをすることにした。この前歩いた天神山から権現山古墳の南と北の隣接地で東海村の文化財マップ記載の地点をしらみつぶしに歩いてきた。

@:キリシマツツジ、A:カヤ、G:十王像と奪衣婆、H:男女俗体坐像、N:如意輪寺のの常緑照葉樹、(29)ケヤキ:、(30):幹曲り杉、(32):スダジイ、(33):エノキ、(38):ナツグミ
(東海村の文化財南東部マップ)


2.データ
a)山域:東海村
b)撮影日:2013/5/27(月)
c)コースタイム:
自宅10:15 = 10:35 (29)ケヤキ10:50 = 10:55 (32/33)阿漕ヶ浦クラブ11:05 = 11:05雨沢古墳11:15 = 11:25真崎貝塚11:35 = 11:40 (30)曲り杉11:50 = 11:55@Aキリシマツツジ・カヤ12:15 = 12:20阿漕ヶ浦12:40 = 12:45レストラン13:15 = 13:20GHN如意輪寺13:55 ---- 14:00照沼住居14:05 = 14:10 (38)ナツグミ14:20 = 14:25X地点 = 14:30村松コミュニテイセンタ14:35 = 14:40真崎浦夕照14:45 = 14:50平原貝塚 = 16:00自宅
d)同行者:和子

3.記録写真
(29)ケヤキ
 今日はほかに予定もないので、マップ上でNo29のケヤキがあるあたりをナビにインプットして朝10時過ぎに我が家を発車した。近くまで入って路側に車を停めて行ったり来たりしながら探したが、大きなケヤキの姿は見当たらなかった。諦めきれないでいるとき、通りかかった青年に「この近くに大きなケヤキの木はありませんか。東海村の文化財になってるのですが。」と尋ねると、「以前この先に大きなケヤキの木が聳えていたが、2、3年前に切り倒されました。文化財を切り倒してはいけませんよねえ。」とのこと。マップは10年も前に作られたもの、しようがありませんね。今はないことが分かって気持ちがすっきりして次に向かった。

阿漕ヶ浦クラブ(32)エノキ(33)スダジイ
 車で交差点まで引き返して(32)(33)のある地点へ右折しようと思ったら、そちらへはガードレールが張られて立ち入り禁止になっていた。近くの空き地に車を停めて、ガードレールを乗り越えてケヤキとスダジイの大木を探しながら歩いて行った。すぐ先の右手に広い駐車場がありその奥に大きな木が2本並んで立っているのが見えた。木の根もとには文化財の白い標柱が立っており、左がNo32のエノキ、右はNo33のスダジイだった。スダジイは丁度花盛り、新緑の若葉の先に目立たないが小さな花がいっぱい咲いているのが見えていた。
(32エノキ)
(33スダジイ)

 駐車場は広いが舗装の間から草も生えていてしばらく使われていない様子、少し先に見えた阿漕ヶ浦クラブの建物も閉鎖中のように見えた。(NETで調べたら東日本大震災による被害のため、当分の間営業を停止とあった。)目の前には阿漕ヶ浦の湖面が広ろがって気持ちの良いところだった。 
(阿漕ヶ浦)

 
雨沢古墳、真崎貝塚
 次は西の雨沢古墳に向かった。古墳の近くに行くと付近はすっかり住宅街になっていて、古墳はなくなっているだろうと諦めながら車を走らせていた。ところが角を曲がって少し行った右手の住宅の間にこんもり盛り上がった古墳のようなものが目に入った。近くの路上で男の人と話し込んでいる近所の奥さんらしき女性に尋ねると「これ名前は知らないが古墳だよ。このあたりには他の古墳や貝塚もあって古墳の公園もあるよ(真崎古墳群のことらしい)」
 貝塚もあるとの話を聞いて、マップですぐ近くに書いてある真崎貝塚も残っている望みが出てきて車を向かわせた。阿漕ヶ浦の運動公園周りの道を走って畑地のところに入って、作業中のご婦人に声をかけると「私は昔からこの近くに住んでいる。この辺は全部荒れ地だったが、今は全部開墾されて畑地になった。この辺の土地は砂地で芋しかできませんがね。この先が発掘されて色々なものが出てきたという話を聞いたことがあるが、今は畑ばかりで貝塚はないですよ。」とのことだった。話好きのご婦人と和子を残して、一人畑地のほとりの道をマップで真崎貝塚のあるはずのところまで歩いてみたが、やはり見えるのは畑地だけだった。真崎貝塚は残っていないと結論を出して、次はNo30の曲り杉に向かった。
(雨沢古墳)
(真崎貝塚跡?)

(30)曲り杉、真崎横穴
 来た道を少し引返してから阿漕ヶ浦への道に出て、阿漕ヶ浦と反対方向に走ったところの分岐点に車を停めて、左の細い道を歩いて下って行った。マップのマークは右の森の中にありそうだが、どこにも分れ道は見つからず、下ったところは目の前に天神山の山並みが見える細浦沿いの道だった。
(天神山の山並み)

 交差点すぐ右手で森を振り返ると文化財No30曲り杉の白い標柱が目に入った。巨木があるかと見渡したが見当たらず、よくよく茂みの中を見ていると、幹が一旦下にS字に曲って伸び、そのあと上に向かって伸びなおしている杉の古木が茂みの中に見つかった。写真に撮ってもはっきりと幹が判る様には撮りようがなかった。この曲がりくねった樹形は文化財マップの表紙に使われている。
 白い標柱のすぐ後ろの崖に、横幅一間ほどの穴が二つ空いているのが目に入った。そう言えば、マップには曲り杉のすぐそばに真崎横穴群のマークが付いていた。真崎横穴群は細浦沿いの道を少し東に行ったところにももう一か所あるようだが、魅力的なものでもないので次に向かった。
(曲りスギ:下にS字に曲っている)
(真崎横穴)

@キリシマツツジAカヤ
 マップでは阿漕ヶ浦への道を少し走ったところにNo@のキリシマツツジNoAのカヤがあるはずだ。その通りの位置の左手に大きなカヤの木が聳えているのが見えた。庭の中に入ってみると、根元の白い標柱を立てた立派なカヤの巨木の全体像を見ることが出来た。
 庭の中にはサルスベリやサツキなどの古木が何本もあったが、キリシマツツジの姿は見つからなかった。声をかけてもお留守のようなので諦めかけて車に戻ろうとしたとき、向かいの作業場に入る男性があって声をかけてみた。「キリシマツツジはこの奥だよ」と住宅の裏庭を教えて貰えた。裏庭への薄い踏み跡があったので無断侵入していくと、「文化財指定No@」の標柱が立つ根本から何本にも別れて育った樹齢300年のツツジの古木があった。このツツジが満開になった姿がマップの裏表紙の写真になっていて、満開の時期にもう一度訪れて300年の名花をぜひ鑑賞させていただきたいと思う。
(カヤ)
(キリシマツツジ)

阿漕ヶ浦夜桜
 阿漕ヶ浦には東海村12景阿漕ヶ浦夜桜の標石があるはずだ。夜桜は見に来たことがあるが、この標石がどこにあったか記憶が定かでない。駐車場に車を入れて、色々なモニュメントが立ち並ぶ公園内を歩きまわって阿漕ヶ浦の奥まで歩いてみたが、阿漕ヶ浦の周りはずっと奥まで金網の柵に囲まれていて標石を飾るようなところは見当たらず、入口方向に向きを変えてR245側の入口に近いところまで来ると、少し高くなったところにその標石は見つかった。標石には「闇の深さに匂いたつ、爛漫たる夜桜。万灯の輝きに、微風の花びらを水面に散らすころ、宴いよいよたけなわとなる。」の唄が刻まれていた。
 標石を見つけたことで満足して次に向かい、如意輪寺近くのレストランに入って簡単な昼食をとって一休みした。
(モニュメント)
(東海村12景の石碑)

如意輪寺秋月
 如意輪寺の駐車場に車を入れて、修理中の山門を潜ってボタンの花木が並ぶ参道を入っていく。東海村12景如意輪寺秋月の標石には「月影はさやかに、大イチョウの梢にかかり、照沼の野は、ふりそそぐ月光に冴えかえる。阿武隈は遠く、黒き眠りのなかにある。」とあった。
 入口には「文化財スダジイ」と「文化財タブノキ」の金属製の立派な標柱が立つ2本の巨木が立っていた。木肌もごつごつしたいかにも年とった老木に見えた。近くに立つ「如意輪寺の常緑照葉樹」の説明板には他にもう一本づつの老木があるとあった。
(スダジイT)
(タブノキT)

 もう一本のスダジイは隣接する墓地の中に立っていて、樹高よりも横幅が見事なスダジイだった。タブノキの方は標柱の立っているところのすぐ先の庭園内にのびのびとした姿で聳えていた。
(スダジイU)
(タブノキU)

 実は今朝出発前に如意輪寺に「文化財の仏像を見せていただけませんか」と電話して、出てこられた奥さんんが「今日はみんな出払っているが、私で良ければ午後には在宅しているのでお見せしますよ。」との有り難いご返事をいただいていた。本堂右奥の居所の呼び鈴を押して案内を乞うと、すぐに鍵を持って出てこられて、本堂左前の宝物殿の扉を開けていただいた。
(如意輪寺本堂)
(宝物殿)

 宝物殿の中には、マップの写真に出ている仏像群が全部整然と並べられていた。
(宝物殿の中)

 中央左手には男女俗体坐像の2体の仏像があった。ヒノキ材,一木造の像で、近くの主庄屋照沼氏の夫婦像で,ともに胸前で合掌し,男性像は比丘形で安座,女性像は頭巾を被って正座している。宝永元年の作で、今は白っぽい単色になっているが、元は綺麗に色が付けられていたとのことだった。
 中央左手には怖そうな奪衣婆(だつえば)の像があり、お寺では「しょうろくばばあ」と呼んでいるとのこと。「しょうろくばばあ」は三途の川のほとりにいて亡者の衣服を脱がせて木の上に投げあげ、その位置で罪の重さを量って地獄の行き場所を決める怖いお婆さんだとのこと。でも罪を償ったら、引き上げて極楽へ送ってくれる優しいお婆さんでもあるとの有り難い話もあった。
(男女俗体坐像)
(奪衣婆)

 両脇の5体づつの仏像は、冥界にあって亡者の罪業を裁く十王の像とのこと。マップの説明によれば「初七日,二・七日,三・七日,四・七日,五・七日,六・七日,七・七日,百カ日,一年忌,三年忌ごとにそれぞれの王が裁く。」とのこと。マップの写真を見て、小さな仏像だと思い込んでいたが、意外に大きくて迫力のある十王様達だった。
(十王像)

 奥さんはなかなかの話好きのお方で、広い庭の手入れや、本殿、宝物殿のお掃除の大変さ、大震災の時にはお寺の大きな屋根も被害を受け、仏像など中のものもことごとく倒れてひどいことになって、復旧が大変だったことなどを色々と話していただいた。入るときに潜って修理中だった山門も大震災の時に被害を受けたもので、順番待ちの末やっと今修理が始まったところとのことだった。

照沼住宅
 丁寧な案内をいただいた奥さんにお礼を言って辞して駐車場に戻ると、100m先に文化財になってもよさそうな大きな木が聳えているのが見え、その下に大きな藁葺の家があった。何か貴重なものかもしれないので行ってみようと話が決まった。歩いて行って石柱の門の間を通って草の道に入っていくと、住宅入口に立派な石碑があって「登録有形文化財08-0222号文化庁」の名板が取り付けてあった。
(クスノキと藁葺屋根の家)
(有形文化財の石碑)

 近くで見るとまた一段と貫録のある大きな曲り屋造りの家だった。今も住んでおられる家のようなので、あまり中を覗きこむことは憚られた。手前の大きなクスノキの下を潜ると、デイケアサービスセンタの駐車場だった。
(照沼住宅母屋)

(38)ナツグミ
 次のNo38のナツグミはR245向かいの道に入って左に曲がったところにありそうだ。目標値近くの交差点の空き地に車を停めて、あちこち歩いていると和子が目の前の高木の下に文化財指定の白い標柱が立っているのを見つけた。近くに行ってみると、目立っていた高き木はグミではなく、ナツグミはその下で斜めに伸びている高さ5mほどの木だった。2本に分かれていて、上に伸びた幹は枯れているように見えた。小さい頃近所の庭や山中でグミの実を頬張ったものであるが、最近は余りお目にかからない。
(白い標柱が見えた)
((38)ナツグミ)

真崎浦夕照
 次の東海村12景真崎浦夕照の石碑探しである。マップでは動燃通りの南側にあるはずと思って目を凝らしながら走って行き、枝道に入って歩行軌跡図の×印のところまで入ってみたが見つからず、R245分岐点にある村松コミュニテイセンタに入って所在を尋ねた。所員の人はどなたも真崎浦夕照の石碑のことはご存じなかったが、女性所員が自宅に電話して動燃通り沿いの商店の道向かいにあるとの情報をとっていただいた。マップ記載の近くに商店があり、その向かいの三叉路の隅に石碑が立っていた。目立たない色で先ほど通った時には二人とも気が付かなかった。
 見つかった真崎浦夕照の石碑には「落陽の厳かさよ、壮大な朱金色の華やぎよ。巨大な日輪は、いまその終りの姿を西丘の森のかげにし沈めようとしている。」の唄が彫ってあった。
(真崎浦夕照)

 マップでは真崎浦夕照のすぐ先に平原貝塚があるようになっているので、ついでにその地点もチェックしてみる気になったが、そのあたりは宅地造成地みたいになっていて貝塚らしき跡は見当たらず、さっさと諦めて我が家に向かった。今日も結構収穫の多い面白い一日でした。




inserted by FC2 system