B32.日立の魅力再発見ウオーク(諏訪)

1.動 機
 水戸偕楽園の梅が見ごろになっているとの情報が流れ、代わりに近くの諏訪梅林に梅見物に出かけることにした。ついでに去年の秋参加できなかった日立の魅力再発見ウオーク(諏訪遺跡めぐり)のコース案内に従ってお散歩することにした。案内では諏訪水穴までの長い車道を往復することになっているが、今時水穴の中まで裸足で入るのは寒そうだし、外から見るだけなら4年前に見ているので、暖かっくなってから再挑戦することにして、今回は割愛した。

2.データ
a)山域:諏訪梅林近辺文化財
b)登山日:2014/03/17(月)
c)日程:自宅 10:50 = 11:10 マルト駐車場 ---- 11:15 朝日家墓地 11:25 ---- 12:00 仏舎利塔 12:10 ---- 12:10 東叡山石灯篭 12:20 ---- 12:45 諏訪梅林(昼食・散策) 13:25 --- 13:30 上諏訪神社 13:35 ---- 13:40 ふれあい橋 ---- 13:45 小野家住宅 13:50 ---- 13:50 多賀野家泉水 ---- 13:55 諏訪神社 14:05 ---- 14:15 マルト駐車場 = 14:30 自宅
(諏訪の魅力再発見ウオーク歩行ルート)

(諏訪の魅力再発見ウオーク歩行ルートの高低差)

d)同行者:和子
e)地形図:1/25000 「日立南部」

3.山行記録
 暖かくなってから我が家を車で出発、交流センタの隣にあるスーパの駐車場に車を置いて歩き始めた。
 最初は朝日祐誠の墓を目指す。朝日祐誠の名前は今まで聞いたことがなかったが、netで調べると
     江戸時代の学者で字を玄明・旭峯道人と号して、京の聖護院法橋家より院号を賜ったとされています。「日本詩選」「車記」「歴朝詩纂」「役公徴業録」などを著して常北の七友・松岡七賢人といわれ、水戸藩からも優遇されていました。碑文は長久保赤水(松岡七賢人の1人)が書いたもので、その墓石は現在小咲山に建っています。
 この諏訪地方には新しい住宅地が開かれていて、ハイカラな家が並ぶ団地の中を300mも歩いて行くと、目印の石内幼稚園があって、右の杉林の中にお墓が見えていた。
(諏訪の住宅地)
(石内幼稚園)

 最初に見えていたお墓は無縁仏を祀ったものだったが、その奥に広く立派な墓地があった。鬱蒼とした古木の間の道を上がると、道の両側に墓地区画が整然と10区画ぐらい並んでいたが、どの墓にも朝日家の名前が彫られていた。朝日家の本家、多くの分家の墓地が全部ここに集まっているようだった。
 一番奥の墓地が一番歴史がありそうで、古びた自然石のお墓が数多く並んでいて、左側の区画の墓誌には祐の字が付いた人の名前が多く並んでいて、「十三世三僧祗法印祐誠安永九年十二月二十八日七十六才」の名前が見つかった。碑文のついた祐誠さん自身のお墓は見つからず、他のところに立派な墓があるのかもしれないが、まあいいか。
 幼稚園前に戻ると丁度退園時間、ママさんたちが続々と集まってきていた。数人のママやおバアちゃんに「朝日祐誠のお墓はどこにあるかご存じありませんか?」と聞いてみたが「そんな人、聞いたことない」とのこと。少し先で土地の男性にも聞いてみたが「この辺りはどの家も朝日さんだよ。朝日さんの墓地はその上にあるが祐誠さんがどうだかは知らないよ」
(朝日家墓地)
(祐誠眠る)

 幼稚園前から団地の中を歩き、急階段を登って平和台霊園への広い道に出た。出たところには和子の親戚の家があり、ここから霊園までは何度も車で走ったことがあるが歩いたことはない。歩きながら両側の斜面の上を見上げると団地の端の家並みが見えていた。何度かバスと行き違い、両側の団地への分岐を見送りながら登って行くと霊園墓地の端に着く。広い墓地を覗いてみて、その広さに驚いた。
 どんどん歩いて行き、葬祭場の前のまで登りつくと、駐車場の奥に仏舎利塔入口の看板が見え、その横に擬木の丸太で作った急階段があった。
(平和台霊園へ登る)
(仏舎利塔入口)

2段になった丸太階段を上ると広場の真ん中に仏舎利塔が立っていた。それは御影石で丸く丁寧に作られたインドの雰囲気がある塔だった。
 階段の間の踊り場に仏舎利塔の由来碑があり、次の記述があった。
    人類永遠の平和と幸福の祈願をこめて、故ネールインド首相から贈られた仏舎利(紀元前四七八年に入滅さっれた大聖釈尊の遺骨)が安置されています。
    昭和三十九年五月 日立仏舎利塔奉賛会結成
    仝     八月 日立市宮田町に仏舎利塔建設
    仝     九月 仏舎利塔国際巡拝団により仏舎利奉安式挙行
    昭和五十一年四月 当地に移設遷座大法要挙行
 由来書と並んで改修の碑が立っていた。
    仏舎利塔を仏舎利奉安三十周年を期に社団法人茨城県労働者福祉協議会殿から改修資金の賛助をうけるなど関係各位のご協力により、当初の大谷石加工石組から御影石加工石組に改修いたしました。
    平成六年二月十七日
    財団法人 日立平和台霊園 理事長 木村国弘
 本体と土台は御影石だったが、周りの敷石は大谷石のままだった。

 事後、そもそも仏舎利塔とは何なのか調べてみた。
     紀元前四百七十八年お釈迦様が入滅され、釈尊の帰依していた国々では、釈尊を荼毘にふした御遺骨を八等分して、夫々塔を建てて御遺骨を奉安した。これを仏舎利塔という。
     その後、釈尊の教えである仏教が各地に広まると、その御遺骨は少しずつ分骨されて、 各地に仏舎利塔が建ち、釈尊崇拝のシンボルとなった。


(仏舎利塔由来碑)
(仏舎利塔)

仏舎利塔の広場から見下ろすと、眼下に太平洋と日立の街並みをバックにして平和台霊園のおびただしい墓石が立ち並んでいた。葬祭場前の説明板によれば、昭和45年の第一回分譲以来拡張を重ね、今では8200基を越える墓所を保有するに至っているとのこと。
(平和台霊園)

 次は、東叡山石灯篭である。この石灯篭は葬祭場のすぐ前にあって、何度かの葬儀の時に見たことがあった。傍にあった説明板によれば
     この石灯篭は、江戸時代、徳川将軍家の暮提寺であった上野東叡山寛永寺に、地方の大名が奉献したもののうちの三基です。
     そのうち厳有院殿尊前とあるものは、四代将軍徳川家綱の霊前に、南部八戸藩主南部(源姓)直政が献じたものです。
     ほかの二基は、常憲院殿、つまり五代将軍徳川綱吉の霊前に、島原藩主松平忠雄と園部藩主小出(藤原姓)英貞とが、それぞれ献じたものです。
     材質は安山岩で、高さは約三メートル、重量は一基あたり約三トンにもなります。笠には三つの葉葵の紋章があり、優美な姿に造られています。
     第二次大戦後に、縁あって日立平和台霊園の所有に帰し、文化財としてたいせつに保存保護されております。
                   日立市境域委員会
(東叡山石灯篭@)
(東叡山石灯篭A)

 葬祭場前には、他にもいろいろな碑が立っていた。大きな日中友好碑には、今の首相に読ませたいようなことが書いてあった。
    第二次大戦末期、一九四四年から翌四五年にかけて日立市に、千二十四人の中国から強制連行され、うち二百三十一名が、船中や事業場で大半が疾病により亡くなった。
    私たちは中国人強制連行五十周年に当たり、後世の人達が、再び中国を侵略し、人民に被害を与えるような過ちを繰り返さないように、殉職者の慰霊と永遠の日中友好を願い、お詫びの心を籠めてこの碑を建立する。 一九九四年五月
 「悠久」の銘がある立派な永代供養塔があった。近年の少子化、核家族化の流れでお墓の継承に悩む人が多くなったため、霊園で責任を持って永代に渡り供養を続ける印とのこと。
(日中友好碑)
(永代供養塔)

 日中友好の碑の傍には、日立寒桜が数輪咲いていた。日立寒桜は日立市にしかない桜で、寒緋桜と山桜の交配種で、寒桜より花が大きく花の淡紫ピンク色などの特徴が認められて、新品種として2006年に品種登録された。「桜のまち作りを進める市民の会」の人立ちの努力で、今では市内に150本ほどが植えられているとのこと。
 日立寒桜のところからは、目の前に先ほど登った仏舎利塔が見えていた。今まで気が付いたことがなかったのが不思議なほど目立っている。
(日立紅寒桜)
(仏舎利塔)

 仏舎利塔と石灯篭を見て平和台霊園はおしまい、諏訪梅林の方に向かって下って行く。こちら側の道も歩いたことは無く、歩くと随分と距離がある。火葬場、墓地、賀毘礼神社、スポーツ広場などを見ながら、常陸太田への県道に出た。
 県道に出てからは鮎川沿いの遊歩道に下りて諏訪梅林に向かう。この遊歩道も歩いた事がなかったが、鮎川の清流を眺めながらの気持ちの良い道だった。しかし、遊歩道は長くは続かず、やがて車道に上がって脇の白線で区切られた狭い歩道を歩くようになった。
(平和台から下る)
(鮎川河畔遊歩道)

 諏訪梅林に着くと、入口に茨城自然百選「高鈴山と鮎川渓谷」の立札が立っていた。随分と広い領域が景勝地として特定されたものだ。
 諏訪梅林は県道に二つに分断されているが、偕楽園と同じように水戸藩主斉昭によって造園されたと言われていて、300本もの梅の木が見られる。まだ3分咲き程度だったが、いい香りを漂わせていて、あちこちに花見を楽しむ人の群れがあった。我家もベンチに座って弁当を食べながら梅を楽しんだ。
(茨城の自然百選碑)
(諏訪梅林)

 斉昭公は命令しただけかと思ったら、「烈公御手植えの梅」の立札があり、一本は朽ちていたが、別に元気な木が立っていた。2代目だろうか。
 諏訪壮青年梅友会などの記念植樹の木もあちこちにみられ、植えられたばかりの幼木も沢山あって、これからますます賑やかな梅園になっていきそうだ。
    由 来
     江戸時代末期、当地にあった水戸藩所有の「梅の木御林」がはじまりとされます。明治時代以降は国有となり、梅の名勝地「諏訪梅林」として保存されてきましたが、明治40年に旧鮎川村が払い下げを受け、今日に至っています。
     天保3年(1832)、水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)が、この地に梅の木を数百本株植栽し「梅の木御林」を造営したおりに、烈公自ら手植えを行ったと伝えられている梅の木が残されているが、現在のものは二代目に当たります。
     徳川斉昭が梅を愛し、多くの梅を植えさせた由来を種梅記録(弘道館公園内)に刻んでいます。 梅は春の先駆けとして清らかな花を咲かせ、実は梅干しとして軍用や飢饉の時の非常食となることから、実用を重んじた斉昭は梅を愛し、領内に広く植樹する事を奨めったと記されています。城下の水戸市には偕楽園(約3,000本)や弘道館に多くの梅の木が植えられています。

(烈公手植えの梅)
(記念樹)

 県道の上の公園に移ってみる。こちらには桜の木もあったが、梅の木も下のものより少し古い様な感じがした。
(上部の梅園)

 園内には、ここを訪れた歌人の歌碑も立っていた。日立のあちこちで見られる長塚節の歌碑が下の梅園に二つあった。
 大きな碑には表に詩が刻まれていて、裏には次の由来が書いてあった。
      長塚節歌碑建設の由来
     長塚節は明治十二年四月 茨城県岡田郡田村国生(現在結城郡石下町大字国生)に誕生 後年アララギ派歌人として活躍し また長編小説「土」を発表して作家としての名声を博した
     明治三十五年三月二十四日 節は はるばると烈公ゆかりの当該諏訪梅林を訪れ碑面の歌を残している
        雪降りて寒くはあれど梅の花
         散らまく惜しみ出でて来にけり
     自然をこよなく愛し春にさきがけて開く梅の花に心ひかれてここまで旅して来た節の気迫と情熱に深い感動を覚える
     今年 節の生誕百年 諏訪来遊七十七周年に当たり諏訪の人々は由緒ある景勝の地である当地に節の歌碑を建設して多年の念願を果たした。ここに市民運動実践協議会 梅友会及び地域有志各位の多大のご尽力と協賛に感謝しつつ、建碑の由来を記して後世への記念とする
      長塚節歌碑建設委員会 会長 助川長蔵
 小さな方の碑には、次の句が彫られていた。
     明治三十五年三月二十四日風雪を冒して とほく多河郡に行く乃ちよめる歌並短歌
    物部の真弓の山の 尾の上には人さはに据え 谷邊には人さはに据え 巖根裂く音のみ聞き 諏訪村の梅さきけりと とほ人の吾に告らせは 燃ゆる火の焔なす心 包めとも包みもかねて をとつ日の雨降る日の きその日の雪降る日の 今日までにけならべ降れど 時経なば散りか過ぎむと 行き悩み吾はぞ追へる とほき多賀路を
       短歌
    雪降りて寒くはあれど梅の花散らまく惜しみ出でゝ来にけり
    多賀路はもいや遠にあれば行かまくのたヾには行かず時経ぬるかも
                長塚節全集より
    昭和五十四年三月二十一日   長塚節歌碑建設委員会建立
上の梅林に小松崎爽青の句碑があった。
    目白来て 日のあるかぎり 梅匂ふ    爽青
 小松崎爽青は日立市在住で、大正時代の生まれの良く知られた俳人だったらしい。
(長塚節歌碑)
(小松崎爽青の句碑)

 上の梅園の最上段には立派な慰霊塔が立っていて、碑文によれば、明治の西南戦争以来の鮎川地区戦没者の霊を慰めるために建てられたらしい。
    太平洋に臨み多賀山地を背にして鮎川の雨岸に成沢油縄子諏訪の大字三部落があつた
    これが我等の郷土旧鮎川村である 村の中央に鮎川小学校がありその一隅に忠魂碑があつた その碑は旧鮎川村出身の戦没者の霊を慰めるため大正年間建立されたものである 然るにその碑は昭和二十年八月終戦直後の混乱の中で姿を消したのである
     爾来二十余年多賀町の一部となっていた鮎川地区はその後日立市と合併し今や発展の中心となりその様相は年と共に変貌しつつある 此の時にあたつて旧鮎川村の有志相計り昨年八月戦没者顕彰会を結成し新たに慰霊塔を建立することを決議した それは多くの人の心に迎えられ多額の浄財もまた寄せられた 事業は順調に進み明治百年の今年茲に荘厳な慰霊塔の建立をみるに至ったのである
     此の地区に生を享けた多数の住民に代わり西南の役をはじめ日清日露の兩役満州日華等の各事変太平洋戦争と幾多の戦役に従軍し或いは又戦災にあうなどして尊い一命を捧げた戦没者は一八〇名に達している
    これらの犠牲者又その遺族の事に思いを馳せる時この地に安住する者は平和な郷土に波乱を呼んだその折々の厳しい現実を慈起すると共に戦没者の霊に敬虔な祈りを捧げないではいられない
     今や世界の平和を願う声は愈強く身命を捧げた犠牲者の悲願であつた永遠の平和は人類共通の課題となつている 風光明媚な故山を後に再び帰ることのなかつた戦没者の霊を慰めその悲願を察することは祖国の再建を願う者の努めでなければならない 戦没者の誰もが生前訪れたであろう由緒深いここ諏訪梅林の傍らにこの慰霊塔が建立された事を機会に戦没者の悲願が人々の胸に甦えるならばその霊も亦安らかであろう 茲に慰霊塔建立の意義を明察しその由来を記して碑文とする
     昭和四十三年三月二十日 茨城大学教授 瀬谷義彦 撰文
      日立市旧鮎川村地区戦没者顕彰会々長 瀬谷秀俊 謹書
 梅園の駐車場脇には一体の馬頭観世音と八体の石塔が並んでいて、脇に由来書があった。
     諏訪梅林の橋のたもとに静かにたたずむ石仏は三面六臂の馬頭観世音さまで、日立地方では数少ない。
     この尊像は私たちに病気災難の厄除け、一生を幸福に過ごさせてくれる観世音様である。時をこえて昔の里人の心が素朴に伝わってくる。
     像の制作は諏訪梅林の造成に先立つこと七十七年前宝暦十二年(一七二六)である。
      平成二十年八月 諏訪文化財愛護班・諏訪壮青年梅友会
(慰霊塔)
(馬頭観世音)

 梅林を後にして県道を少し引き返して左の道に別れると、すぐのところに左に鳥居があって石段が登っていた。脇に上諏訪神社の石柱が立っていた。
 この石段を登ると広い上諏訪神社参拝者用駐車場があって、その上にも鳥居と石段があり、上諏訪神社はその上にあった。駐車場の広さに比べて意外なほど小さい神社だった。
(上諏訪神社一の鳥居)
(上諏訪神社二の鳥居)

 石段と反対側の車の出入り口から出て、住宅街の中を歩いて鮎川沿いの道を歩くとすぐにふれあい橋があった。橋桁には沢山の鉄筋が並んで取り付けてあって、これを端から順番に叩いて歩くと「おうまのおやこはーーー」のメロデイーが奏でられるようになっている平成元年に竣工した珍しい橋だ。
 橋から眺める上流下流の鮎川の眺めも綺麗だった。
(ふれあい橋)

(鮎川、橋の上流)
(鮎川、橋の下流)

 橋を渡って県道を歩くと、左手に県指定文化財の小野家住宅があった。今でも住居になっているが、門扉が開いていたので、庭に入って拝見させていただく。藁屋根の大きな家で、屋根の手入れのためか梯子が掛かっていた。これだけの建屋を個人で保守していくには大変な苦労があるのだろうと思う。
 庭には茨城県文化財建造物第四十八号「小野家住宅」の説明板が立っていた。
     茨城県の北部一帯から太平洋沿岸にかけての地帯には、いわゆる「曲り屋」形式の民家が見られました。主屋の土間部分から前方に突出させた曲り部分を持つ民家で、そこにウマヤがあるものを「内ウマヤ形式の曲り屋」といいます。小野家は、建立年代がほぼ十八世紀前期と推定され、本県の代表的な曲り屋のひとつであります。
     桁行九間、梁間3間半の主屋に、三間×二間半の曲り部分が付き、平面構成は右手の床上部と、左手の土間部から成っています。床上部は土間側から、十二畳敷の「ひろま」・六畳敷の「なかま」とその北側に四畳半板敷の「へや」(「なんど」とも称し、かっての寝室を意味する)、そして一番上手には8畳敷の「ざせき」が並んでいます。
     なお、小野家はかって水戸藩の村役人・横目庄屋を代々に亘って務めてきました。
                    日立市教育委員会
(小野家住宅入口門)
(小野家住宅曲り屋)

 小野家住宅の道向かいに多賀野家の入口があった。ここ邸内には清らかな泉が湧いている水戸黄門様も訪れたという美しい庭園があるらしいが、ここの門扉は固く閉ざされていた。門の脇からは清らかな水が流れ出ていたが、門扉の隙間から中を覗いてみるだけだった。
(多賀野家入口門)
(庭を盗み撮り)

 多賀野家のすぐ脇に諏訪神社の一の鳥居があり、その奥に鬱蒼とした古木の中を石段が登っていた。その上には木の鳥居があって、次の石段んを上がったところには大きく立派な神社が建っていた。
 拝殿の懸額には諏訪第二宮の懸額が掛かっていた。信州諏訪の諏訪神社に仕えていた藤原高利(万年太夫)が千二百五十年、上諏訪明神の分霊を当所上諏訪に、下諏訪の分霊を当所下諏訪字台にそれぞれ勧請したと伝えられており、水戸黄門の指示で諏訪市のお宮を第一宮と呼ばれていたことから、ここを第二宮と称するすることになったとのこと。
(諏訪神社入口)
(諏訪神社拝殿へ)

  創設者の万年太夫が自作した木造夫婦座像(県指定文化財)が保管されている倉が、多くの境内社が祀られている脇にあった。交流センタ主催のウオーキングの時には、この坐像も拝観させて貰えるらしいので、朝日祐誠の墓、小野家住宅の室内、多賀野家の泉水庭園、諏訪の水穴探検と合わせて、次のウオーキングには参加したいと思う。
(木造万年太夫夫婦坐像保管庫?)
(境内社)

 スーパの駐車場に戻ってからまっすぐ我が家に急いだので、朝日祐誠の墓の件を交流センタで確認することを怠ってしまった。




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