C114.天橋立・出石城址・余部駅・竹田城址・姫路城
3.2 二日目(出石城跡・余部橋梁・竹田城跡) 宮津ロイヤルホテル8:05 = 9:20出石城山ガーデン9:25 ----(出石観光散策)---- 10:25出石城山ガーデン = 11:45渡辺水産(昼食)13:00 = 13:05浜坂駅13:22 =(山陰本線電車) = 13:35余部駅 ---- 道の駅橋梁14:05 = 15:35山城の郷15:40 =(マイクロバス)=15:45中腹駐車場 ----(竹田城跡ウオーク)---- 16:50中腹駐車場17:05 =(マイクロバス) = 17:10山城の郷 = 17:30和田山IC = 18:25花田IC = 18:40姫路プラザホテル(夕食泊)----姫路城夜景見物
二日目は出石城跡、余部橋梁、竹田城と三か所を巡っての観光なので忙しい。早めに起きだしてホテルの窓越しに天橋立の写真を撮っていたのだが、帰宅後確認したらガラス面に変な反射光が入っていて駄目だった。朝湯に入ってバイキングの朝食をとり、バスに乗って8時過ぎに出発した。 宮津の街を過ぎ、国道から県道に入って兵庫県との県境の岩屋峠に差し掛かると、崖崩れの後の修理のために道路は半分の広さになっていて、大型バスが通るにはぎりぎり、ハラハラして見ている間に見事通過して運転手さんの腕前に拍手。 出石城跡 峠越えをして国道に入って走って行くと、やがて四角に整然と区切られた出石の街並みに入り、出石城跡入口に近い出石城山ガーデンという土産物店の駐車場に入った。
土産物店のトイレを借用して、添乗員はみんなを辰鼓楼まで案内して、集合時間だけ指定して後は自由散策。 辰鼓楼は、明治4 年に建設されて太鼓で時(辰)を告げていたが、明治14 年に医師の池口忠恕氏が大時計を寄贈してからは、町のシンボルの時計台として親しまれているとのこと。
宗鏡寺へ曲る角の近くに桂小五郎居住跡の表記があったので立寄ってみる。あの桂小五郎が追われる身になった時に、この町に匿われていたとのこと。住んでいた住居跡の碑が立っており、その脇に下記記述があった。 桂小五郎居住跡(荒物屋跡)
元治元年(1864)7月禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となり桂小五郎も追われる身となりましたが、出石の町人甚助・直蔵兄弟の義侠により京都を脱出し町内各所にかくまわれていました。 当家は荒物屋を営んでいた跡です。愛人の幾松も訪れています。潜居九ヶ月、九死に一生を得た小五郎はやがて回天の大業を為し遂げ木戸孝允と名を改め、維新の三傑と仰がれましたが、この出石こそ桂小五郎の再生の地となったのです。 出石町観光協会
その先の角に本高寺の標石が立つ山門があり、中に入って見ると堂々とした本堂があり、脇の由緒によれば500年以上前の創建とのこと。
宗鏡寺入口のところで行き合った同行者が「中には入らなかった」と言いながら通り過ぎて行った。山門まで入っていくと正面に立派な本堂が見えていたが、入場料がいるらしい。中には広くて見事な庭園もあるらしいが、ゆっくり見ていては肝心の出石城跡を歩く時間が無くなる。同行者と同じく中には入らないことにした。
明治館前から出石城跡に向かうと、近くに諸杉神社へ入る橋があり、この境内から城跡への道があると直感して橋を渡った。
その道をそのまま歩いて行くと、斜面を登る一直線の石段上に赤い鳥居がいくつも並んだ稲荷神社の参道があった。なかなか見事な景観だった。
近年建てられたという櫓の脇を通って中に入って登って行くと、二の丸跡、仙石科野大宮社、本丸跡と続いた。
振り向けば、一本の大きな木が聳えていて、その向こうに真っ黒い辰鼓楼の建物が見えていた。
ここから余部駅まで日本海に向かって走る。はじめ出石川の右側に沿う道を進んでいるとき、河原には時々シラサギなどの鳥が見えたらしく「時にはコウノトリもいるかもしれないからよく見ていてください」とガイドさんの声。だが、私の席は今日は右側で河原を見ることができない。がっかりしていると、右側のてっぺんにパイプで作られたリング状の物を取付けた高い鉄塔が現れ、「コウノトリのつがいがいますよ。皆さんラッキー!」とガイドさん。肉眼ではよく判らなかったが、写真だけ撮っておいた。この鉄柱は天然記念物のコウノトリ保護のためにコウノトリのつがいが巣をつくるように建てられたものとのこと。
余部道路に入って日本海に近付くと、目の前にい橋梁が見えてきて、手前はコンクリート製で白いが、その左向こうに赤い鉄の橋梁も見えていた。これがお目当ての余部橋梁だったが、バスはこの橋を下から眺めただけで通過して海沿いの道に出た。 余部駅に下から登ることもできるが、今日は少し先の浜坂駅から電車に乗って余部駅まで山陰本線の電車を体験させてくれる。バスは日本海を右に見ながら鳥取方向に走って行った。
食事に満足して、下の海鮮市場に入って土産物を物色する。
後でNETで調べたら、「実物大の写真パネルを制作しました」との記事は見つかったが、模型を展示してあるとの情報は見つからなかった。良くできた写真だったので立体的に見えて、その時は模型だと錯覚したのだろうか。
13時17分発の予定だが、特急電車が遅れて5分間待つ。数人で特急電車の入線状況の写真撮影に色めきたった。
この鉄橋跡が空の駅展望台として公開されているのは、30年前の列車転落事故の悲劇を忘れないためで、NETに下記記述があった。 空の駅建設の経緯 初代の旧橋梁は鋼製トレッスル橋で「余部鉄橋」の通称でも知られ[5]、1912年(明治45年)3月1日に開通し、2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了した
明治45年の完成から約100年間、JR山陰本線の運行を支えてきた余部鉄橋。 平成22年8月、新しくコンクリート橋に架け替えられましたが、JR餘部駅側の3本の橋脚は現地保存され、余部鉄橋「空の駅」展望施設として生まれ変わりました。 また、余部橋梁下には、展望施設へのアクセス通路や公園もあり、芝生張りの自由広場や余部鉄橋の橋脚跡を活用した東屋などでゆったりとした時間を過ごすことができます。 地上高約40mの浮遊感や日本海の美しい眺めをお楽しみください。 列車の転落事故について 昭和61年(1986年)12月28日日曜日午後1時25分頃、鉄橋を通過中の香住発浜坂行き回送列車が日本海からの突風にあおられ、機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落、真下にあった水産加工場や民家を直撃しました。
この列車は、団体臨時の和風列車「みやび」、山陰お買い物ツアーなどの一般客174人を乗せて午前9時26分に福知山駅を出発、11時49分香住駅に到着し乗客を降ろした後、浜坂駅に回送するため午後1時15分香住駅を出たあとの落下でした。 橋脚に残ったのは先頭のディーゼル機関車1両と客車の台車3組(1両半分)だけで、現場は約50メートルにわたってレールが曲がりまくら木もずたずたに。 この事故で山陰線は不通となり、直下の国道178号線も一時不通、電話回線も切断されたのか一部地域が一時不通の大惨事となりました。 客車内に居た車掌1名と加工場の従業員5名の計6名が死亡、客車内に居た日本食堂の従業員1名と加工場内の従業員5名、計6名が重症を負いました。
金網越しに日本海が望めるが、下の余部の集落を見下ろすのが、この橋梁の高さを実感できていい体験だった。
やってきたバスに乗って一路竹田城跡に向かった。山間の道を走って豊岡に戻り、綺麗なせせらぎの円山川沿いの道を走って、和田山八鹿道路に入って連続するトンネルを走ったりと変化のある道だった。
竹田城跡についてのNET情報 竹田城跡は、その石垣遺構が全国でもまれな完存するものであり、虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」とも呼ばれています。
秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生することがあり、但馬地方の風物詩となっています。この雲海に包まれた姿や竹田城から見下ろす風景は、まさに天空に浮かぶ城を思わせ、いつの間にか「天空の城」・「日本のマチュピチュ」とも呼ばれるようになりました。この幻想的な風景を一目見ようとたくさんの人々が訪れます。
添乗員から「竹田城址はきつい階段道が続き、これが一方通行なので途中で引き返すことができない。自信がない人は山城の郷で待っているように」との忠告があったが、全員山城の郷からマイクロバスに乗り換えた。くねくねとした狭い道を5分ほど走ったところに中腹パーキングがあり、ここから竹田城跡ウオーキングが始まった。
北千畳から北東方向には、竹田城址と尾根続きの360m峰の両脇に、692mの大倉部山と464mの金梨山が挟んで見えていた。
二ノ丸まで上がると、南二の丸の石垣と南千畳も見えてきた。
ホテルに着いたのは既に暗く18時40分、部屋に入って一休みする間もなくすぐに夕食タイムだった。忙しかった今日のバス旅を語らいながら、ビールで乾杯!。美味しいたこ飯の夕食を賑やかにいただきました。
夕食後、ホテルを出ると5分で姫路駅南口に着いて、ガード下を潜って北口に出ると広く真直ぐな大手前通りの先にライトアップされた姫路城が見えていた。展望台に階段で上がると邪魔者がなくなり、白鷺の天守閣がスッキリと見えていて素晴らしい景観になっていた。しろすぎ城も悪くない。
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