C32.水戸の偕楽園とロマンチックゾーン

1.動 機
 新聞に「杜と泉と歴史の道〜水戸のロマンチックゾーン早春のスタンプラリー」というイベントが21日〜23日に行われるとの情報があった。NETで調べると、ロマンチックゾーンは八幡宮から愛宕神社までR118沿いに水戸藩歴史に縁深い文化財が集中する地域で、案内図によれば2時間もあれば全部を見て歩けそうだ。偕楽園の梅も見ごろになったという情報もあり、梅見を兼ねてスタンプラリーの景品はなくても静かに歩けていいだろうと早速出かけることにした。

2.データ
a)山域:偕楽園(25)、水戸ロマンチックゾーン(30)
b)登山日:2015/3/16(月)晴のち曇
c)コースタイム:日立自宅 10:10 = 10:50千波湖駐車場10:55 ---- 11:05偕楽園12:10 ---- 12:35@八幡宮12:50 ---- 13:00A祇園寺 ---- 13:05墓地13:15 ---- 13:20レストラン14:00 ---- 14:15B二十三夜尊 ---- 14:20C保和園14:25 ---- 14:30D常磐共有墓地15:00 ---- 15:00E回天神社15:10 ---- 15:15馬塚古墳 ---- 15:20F愛宕神社15:25 ---- 15:30G曝井15:35 ---- 15:50H光台寺15:55 ---- 16:20別雷皇太神 ---- 16:25神崎神社16:10 ---- 16:35千波湖駐車場16:40 = 17:20日立自宅
(偕楽園とロマンチックゾーンのウオーキングコース)

(偕楽園とロマンチックゾーンのウオーキングコースの高低差)


d)同行者:和子
e)地形図:「水戸」

3.山行記録
1.偕楽園
 我家を10時過ぎに出発して千波湖湖畔の駐車場に着くと、入口に係員が立っていて、駐車料金500円を前払い、「何時までいいの」と聞くと「明日の朝まで置いとても大丈夫ですよ」とのこと。
 ランニングに励む人も見える湖畔の道を歩いて、常磐線の跨線橋にあがって眺めると、向かいの偕楽園に梅の花が咲いているのが見え観光客が登って行くのが見え、下の田鶴鳴梅林にも一面満開に近い梅の木が見えていた。丁度特急ひたち号がやってきてシャッターチャンス。このタイミングを待っていたカメラマンも大勢いた。
 跨線橋を渡って偕楽園に上がると、出店通りは満員の盛況、昨日の休日はさぞかし混雑したことだろう。入口にはボランテアの案内者が何人も待機しておられたが、いつものように気ままにぶらぶらしようと東門から園内に入った。
(跨線橋からの偕楽園)
(東門から入場)

 偕楽園は日本三名園のひとつ、園内には3,000本もの色々な種類の梅が咲いている。斉昭公が「衆と偕に楽しむ場」として開設したもの、古木が多いのも見応えを増している。
(入口の老木)

 白梅だけでなく、赤やピンク、黄緑など色合いの違う花もあちこちに見られる。
(色付きも)

 梅園の中に網の目状に作られた遊歩道を歩いていると、園の中ほどに人だかりがあり、黄門様が二人の梅娘と一緒に、観光客の記念写真に一緒に写るサービスをしている。急ぐこともないので、順番待ちの行列に並んだ。
 人も多かったので、好文亭の上からの展望は止めにして、その瀟洒な佇まいを外から眺めただけ。
(黄門様・梅娘さんと)
(好文亭)

 公園の南側まで歩いて、下の田鶴鳴梅林の梅や千波湖を眺めながらコーヒタイム。
(田鶴鳴梅林)

(千波湖)

 休んでいると、団体の子供たちの賑やかな声が聞こえてきて、広場の真ん中でお弁当時間。園児を纏める幼稚園の先生は大きな声を上げながらお忙し。
 ここから田鶴鳴梅林を歩いて駐車場に戻る積りだったが、和子から「ここから八幡宮まで歩いたら、ウオーキングに丁度いいんじゃない。」とお元気な提案あり、梅の花を眺めながら網の目状の遊歩道を歩いて、正門から外に出た。
(園児)
(紅梅)

2.ロマンチックゾーン 
 水戸のロマンチックゾーンは水戸八幡宮、祇園寺、二十三夜尊、保和園、常磐共有墓地、回天神社、愛宕山古墳、曝井(さらしい)、光台寺など、江戸時代からの史跡が密集している(観光協会のマップはここをクリックすると出てきます)。水戸八幡宮、二十三夜尊、保和園には去年4月のアジサイの時期に近所のKさんとOさん一緒に歩いたが、他の史跡ははじめて訪れるところ。印刷したマップを見ながら、ぶらぶらと歩いた。

@水戸八幡宮
 偕楽園から八幡宮までナビを頼りに車で移動する積りだったので、地図を持たず、少し迷いながら歩いたが、30分足らずで八幡宮の入口に到着した。
 市指定有形文化財の瑞神門や拝殿、国指定重要文化財の本殿、国指定天然記念物の御葉付公孫樹を眺めたりしながら歩いて、本殿側から街に出た。
(八幡宮入口)
(二の鳥居と瑞神門)

(拝殿)
(本殿)

A祇園寺・墓地
 街中を方向を間違えながら10分歩くと、次の祇園寺の入口に着いた。祇園寺と彫った大きな石碑が立っていた。
 祇園寺は黄門様が、明の心越禅師を招請して開基したとのことで、元禄時代建立の金剛尊天堂も見られたが、本院も地味な佇まいだった。
(祇園寺入口)
(本院)

 マップには、ここに洋画家の中村彝(つね)の墓があると記されているので、広い墓地を歩いて探してみた。墓地のあちこちに白い標柱が立っており、元禄時代の水府流水術の指導者・島村孫衛門正広の墓があり、その奥に中村彝の墓が見つかった。
(島村孫衛門の墓)
(中村彝の墓)

 その他、墓地には市川三左衛門や朝比奈弥太郎などの墓があり、NETで調べると、これらの人物は江戸末期の水戸藩士で、佐幕派の諸正党を率いて尊攘過激派の天狗党の鎮圧につとめたが、明治の新政府と対立することになって処刑されたとのこと。江戸末期、水戸藩には佐幕派、尊攘派両派に多くの優れた人材がいたが、藩内抗争と幕府との対立などでことごとく失い、明治新政府で重要な地位を占めることはなかったという。
 この時代の水戸藩の歴史を調べていると物凄く面白いのだが、茨城の生まれでない私には水戸藩の歴史について基礎知識がなく、調べたことをここに書いて格好よく纏めようと思うと時間がいくらあっても足りない。墓地内に古めかしい水戸戊辰殉難慰霊碑が立っていて、そのそばに、下記のような碑文を書いた真新しい由来碑が立っていた。これを転記してお茶を濁すことにする。
     尊王思想の志厚い水戸藩主徳川光圀は、明暦三年(1657)「大日本史」の編纂に着手し、その後、百三十余名の学者などが携わった。第六代藩主保治の時、半知借上をしても窮迫化の藩財政面から編纂継続の是非をめぐり、彰考館史局内部では、立原総裁派と藤田幽谷派が対立し、立原派は去ったが、明治三十九年(1906)に4部397巻が完成した。
     幕末にいたり、第九代藩主徳川斉昭、藤田幽谷その子東湖、会沢正志斎らに代表される後期水戸学は、内圧と外圧の現実の問題を深刻に受け止め、大義名分論に基づき尊王の思想に攘夷論を付加し、独特の学風にしたのでこの攘夷論をめぐる学問上、政治上の抗争と、朝廷より水戸藩に下賜された戊午(ぼご)の密勅の取扱いや薩長との密約(薩長は建設・水戸藩は破壊)による行動等で対立、藩論が二分、三分し、悲劇の水戸藩朋党(天狗・諸生党)の乱を生むに至ったが、両派とも尊王敬幕の思想では一致していた。
     この乱の被害は、栃木、千葉県迄及びさらに水戸藩士のほか婦女子、農民などまでまきこみ、二千数百名の尊い人材を維新の祭壇にさゝげつくした。
     諸生党の係わる主な碑は、千葉、茨城、新潟にある。最期の地、千葉県八日市場の有志は、大正十五年四月弔魂碑を建立した。また新潟県西山町の有志は、諸生党などが戦死した灰爪の丘に平成元年十月北越戊辰の役戦没者供養碑を建てた。
     なお、明治十七年諸生党の有志が、水戸市神應寺に記念碑(篆額は会津藩主・松平容保公の書)を建立したが、戦災で破損して拓本のみがある。
     ここ祇園寺の諸生党殉難碑は昭和九年秋、二十二名の方々が建立、今年で六十周年となるのを機に、歴史に関心もつ有志が主体となり整備の上、諸霊を供養するものである。
      平成六年七月吉日             来栖平造 撰文
(市川三左衛門の墓)
(水戸戊辰殉難慰霊碑)

 R118沿いのレストランに入って昼食をとってから次の保和園に向かった。
B二十三夜尊
 保和園の入口に二十三夜尊が建っており、黄門様が命名した号は保和院とのことで、右手の庭に、助さんと格さんを従えた黄門さんの石像が立っている。
 左には延命地蔵さんとぼけ除け地蔵が並んで立っていて、すでに手遅れだろうが、ぼけ除け地蔵さんに丁寧にお参りした。手前には平成19年に作られたぴんころ地蔵尊のあった。
(保和院二十三夜尊)
(延命地蔵尊とぼけ除けの地蔵)

C保和園
 その奥の庭を黄門様が愛して度々訪れて保和園と名付けたが、昭和初期に地元有志の手によって拡張整備され、池に築山を配した純日本庭園になり、名前も「保和苑」となったとのこと。その後、苑は拡張されてアジサイの植栽が行われ、去年の初夏、我家もアジサイを眺めながら園内を一回りしたことがあるので、山村暮鳥の歌碑や投稿句を眺めながら、園の上の部分を歩いただけにして、隣接の常磐共有墓地に入った。
(山村暮鳥の歌碑)
(保和園の投稿句)

D常磐共有墓地
 この墓地は、黄門様が水戸藩の士民の喪祭が神仏まちまち、習わしにとらわれて無駄な費用に苦しめられているのを見て、儒式を取り入れた簡素な喪祭の仕方を教え、無料の墓地を作って墓碑も一定の形と大きさを定めたとのこと。
 ロマンチックゾーンのマップを見ると、我家近くの泉神社に歌碑がある藤田東湖の墓がこの墓地内にあるとのことなので、その墓を探すことにした。いざ墓地に入ってみると、物凄く広くて夥しいお墓が立ち並んでいるのに驚き、この中から一つの墓を見つけ出すのは大変そう。。入口近くのお墓の掃除をされていた男性に「藤田東湖の墓はどの辺りにありますか」と尋ねると、「墓の掃除を止めにして先に立って歩き出された。
 スタンプラリーの旗がたなびく各さんや関鉄之介の墓、彰考館の歴代館長のお墓などを説明をしながら歩いて行かれた。
(常磐共有墓地の親切な男性)
(各さんの墓)

 墓地の端までくると、一区画の中に藤田幽谷二郎左衛門と藤田東湖のお墓が御夫人の墓と一緒に並んでいた。幽谷が東湖の父で朱子学者、彰考館の館長になり大日本史の編集にあたったとのこと。「藤田家の墓が震災で請われて、去年も修復されていなかったので市に注文を付けたのだが、綺麗になっていてよかった」と嬉しそうに眺めておられた。
 藤田東湖の四男が天狗党を立ち上げた藤田小四郎だが、妾との間の子供だったので、この墓地には入れて貰えなかったとのことで、小四郎の墓はその母と一緒に隣接する別の墓地にあるとのこと。
 水戸藩所縁の志士の墓を見ながら小四郎の墓の方向に歩いて行くと、こちらにもお墓掃除の男性がおられたので、「藤田小四郎の墓はこの近くですか」と尋ねると、曲がり角まで歩いて行って、「この先を右に曲がった左にありますよ」と親切に教えて貰えた。教えて貰った通りに歩いて行くと、ここにも藤田家の区画があり、その入口左に小四郎の墓が立っていた。
(藤田東湖・幽谷の墓)
(藤田小四郎の墓)

E回天神社
 小四郎の墓のある墓地から街の方に歩いて行くと、石門の中に夥しいお墓が並んでいた。標柱には「水戸殉難志士の墓(一画)」とあった。その奥に殉難の石碑があり、その後ろには白い回天館の建物があった。更に歩いて行くともっと多くの墓が立ち並ぶ「水戸殉難志士の墓(二画)」があった。説明板によれば、両方合わせて371のお墓があるらしい。
     徳川時代の末、尊皇攘夷をめぐり元治元年(1864)春、「元治甲子の変」いわゆる「天狗党の変」が起った。
     この年の秋、那珂湊において幕府軍に降伏した水戸藩執政榊原新左衛門等一千余の志士は、茨城古河、千葉館山、埼玉川越、東京佃島等十数カ所の獄舎、寺院に幽閉され、降伏から明治維新により救出開放される4年間に斬死、幽死、獄死した志士の数は、四百人とも五百人とも云われている。
     明治2年、新政府の初代の水戸藩知事となった徳川昭武公は、明治維新の礎として殉難したこれらの志士の遺骸を収容して、常磐共有墓地の一角(現回天神社境内)に埋葬し、同所に「殉難」碑を建立、慰霊顕彰した。
     大正3年、「元治甲子の変」より50年を期して斎行された慰霊祭を機に、殉難志士の氏名、年齢、死因、殉難地を調査した結果、371名について判明し、その氏名を刻して墓を建てたのが現在の1号墓所、2号墓所であり、その墓列の総延長は370余メートルと長大なものとなった。
     昭和29年、この墓所は水戸幕末の英魂鎮まるところとして、水戸市指定史跡に指定され、歴史的遺産として保存が図られてきたが、近年に至り荒廃が著しく、大政奉還130年目にあたる平成9年秋、水戸市の補助、遺族、崇敬者の寄金、回天神社の拠金により改修事業に着手、平成10年春完了、往時の姿に戻したものである。
     国に殉じた志士の鎮魂と、また、これを慰霊し顕彰のために建墓された先人の遺徳が偲ばれる。
         平成十年三月   水戸市指定史跡水戸殉難志士の墓保存会
(一号墓地と回天館)
(二号墓地)

 回天館落近くには、クスノキやヒマラヤスギの大木が立つ林の中に回天神社があった。回天神社は、安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変以後国のために殉した1,785名の志士の霊を慰めるために、明治維新百年の昭和44年に造営されたとのこと。
 回天神社を後にして、次の愛宕神社に向かう。途中、生涯学習センタの広い前庭に小さな小山があって、馬塚古墳の立札が立っていた。
(回天神社と右に回天館)
(馬塚古墳)

F愛宕神社
 古墳の少し先に鳥居があり、その脇に愛宕山古墳と愛宕神社の説明板があった。前方後円墳の愛宕山古墳の頂上に愛宕神社が建っている。
(愛宕山古墳の説明)
(愛宕神社の説明)

鳥居をくぐって石段を上ると、その先の林の中に長い参道があった。参道は前方墳の上で、脇には小さな天満宮の社もあった。
(愛宕山古墳=愛宕神社入口)
(参道)

 参道の先にもう一つの石段があり、その上に愛宕神社の立派な社殿が建っていた。後円墳の頂上である。
 神社の脇の階段を下りると、こちら側にも立派な鳥居と愛宕神社と彫ったの石柱が立っていた。どちらが正門か判らない。
(山頂の愛宕神社)
(横からの神社参道)

G曝井(さらしい)
 横の門を出て、右に住宅街の道を歩いて行き、T字路で右に下ると、右手の竹林の手前の湿地帯に、曝井の石碑や、「三栗の中に向へる曝井の絶えず通はむ彼所に妻もが」と詠んだ万葉集の歌碑などが立っていた。
(曝井の石碑)
(万葉集の歌碑)

 水草の繁る綺麗な流れの元には、こんこんと水が湧きだしている泉があった。
(曝井)
(曝井の泉)

H高台寺
 曝井から引き返してR118に出ると、道向かいに光台寺と彫った石柱が見えた。交差点を渡って、その奥の山門をくぐって高台寺にお参りする。このお寺も別のところに開基された義宣院というお寺を黄門様の命でこの地に移されたとのこと。水戸ではどこにでも黄門様の名前が出てくる。
 高台寺は藤田東湖とも縁があるらしいし、ここの広い墓地にも彰考館館長や桜田門外の変の烈士などのお墓もあるらしいが、六地蔵尊などが並ぶ入口を眺めただけで引き返した。
(光台寺入口)
(墓地入口)

 高台寺からは幹線道路の歩道を歩いて千波湖湖畔の駐車場に向かって、てくてくと歩いた。途中、神応寺や別雷皇太神、神崎寺などの寺院が見られたので写真に残した。
(神応寺)
(別雷皇太神)

 千波湖まで来ると、手前の川に綺麗な水鳥が群れて遊んでいたので、カメラを向けたら一斉に飛んで行ってしまった。残念! 代わりに千波湖の噴水が大きく吹き上がるのを待ってカメラに収めた。
(神崎寺)
(千波湖に戻る)

 今日は平地だったが、歩行距離は14kmになって結構疲れたが、なかなか面白い見所が多く、水戸藩の事にも興味を惹かれて有益なウオーキングでもありました。




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