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C76.茨城空港と石岡の史跡

1.動 機
 9月に茨城空港から出発する旅行社のツアーに参加申込みしたが、茨城空港にはまだ行ったことがなかった。走行コースや駐車場などの下調べのために茨城空港に出かけ、空港を往復するだけでは勿体ないので、近くの石岡市の史跡めぐりをしてきた。石岡市HPには史跡めぐりのウオーキングコースが紹介されているが、この暑さでは太陽の下を歩く気にはなれず、車で常陸国分寺跡、常陸国分尼寺跡、石岡小学校周りにある陣屋門、常陸国総社宮、府中城跡、常陸国衙跡を巡ってきた。

2.データ
a)山域:茨城空港、石岡市
b)登山日:2015/7/30(金)晴
c)コースタイム:
自宅 10:00 = 10:11 日立南IC = 10:28 友部JCT = 10:33 茨城町JCT = 10:39 茨城空港北IC = 10:57 茨城空港 11:52 = 11:55 空の駅そらら 12:20 = 12:45 レストラン(昼食) 13:45 = 14:05 常陸国分寺跡 14:30 = 14:35 常陸国分尼寺跡西 14:40 = 14:45 常陸国分尼寺跡東 14:50 ---- 15:05石岡小学校P ---- 15:05 陣屋門 ---- 15:10 常陸国総社宮 15:25 ---- 15:30 府中城跡 15:40 ---- 15:42 石岡小学校P = 15:47 宮部千手院 15:55 = 16:12 千代田石岡IC = 16:48日立南IC = 17:00 自宅
d)同行者:和子
e)地形図:1/25000 「下吉影」「石岡」」

3.山行記録
茨城空港
 茨城空港まで車で行くのはナビに行き先指定すれば迷うことはないが、北関東道を茨城JCTから別れて先は初めての道なので、道路状況や周り眺めを気にしながら走って行く。茨城空港に到着すると、ターミナルビルの建物の前に広い駐車場があるが、ビルの近くは一般搭乗者用となっていて満車状態、見学者用の駐車場があるのかと思って走り回ったが見当たらず、一般駐車場もどこも満車、ビルから4区画目の駐車場にやっと隙間を見付けて駐車できた。ビルの二階から眺めても、駐車場がびっしり車で埋まっていることが良く見えた。1300台の大駐車場だが、何日間停めても無料なので、みんなバスを使わないで自家用車でやってくるのだろう。ツアー当日駐車できなかったらどうしようかと心配になり、案内所のお嬢さんに聞くと、「夏休みになってからは毎日こんな状態です。9月になると空いてくるでしょう」とのこと。
(駐車場は満車状態)
(空港二階からの駐車場)
 11時過ぎにターミナルビルに入ると、左にスカイマーク、右に春秋航空のチェックインカウンタが並んでいる。スカイマークの方は自動機もあって人の列はないが、春秋航空の方には長蛇の列が出来ている。それでもチェックインカウンタでは係員の動きはなく、30分経った時にも列が減っているようには見えなかったが、係員の方が冷たいのか、列を作る人の方が早く来過ぎたのか? 出発時間は案内板ではスカイマークは12:05、春秋航空は13:20だった。
(スカイマークカウンタ前)
(春秋航空カウンタ前)

 茨城空港はコンパクトな空港で、判りやすい配置になっていて迷うことはなさそうだ。送迎デッキから滑走路や待機中の飛行機を眺めたり、観光案内所やお土産店を覗いてみたりしてから、レストランに入って昼食をとろうかと思ったが、店の名前が我が家近くのレストランンと同じ名前だったので入る気がせず、来る時空港近くで見かけた”空の駅そらら”に行ってみることにした。
 広い駐車場の端まで歩いて我が愛車を見付けて出発、出口からすぐの交差点の向こうに”空の駅そらら”があった。早速昼食をと思ったが、明日からそららの開業一周記念行事が始まるとのことで、今日は営業していなかった。農産物直販店に入っていろいろ物色して石岡に向かい、結局昼食にありついたのは、石岡市街入口のファミレスだった。
(空の駅そらら)
(農産物直販所)

石岡
 見て回った石岡市内の史跡の場所を地図上に示します。
(石岡名所めぐり)

 昼食後、車のナビに行き先を府中5-1-5を指定して常陸国分寺跡に向かった。国分寺入口に小さな駐車場所があり、常陸国分寺跡の説明板があった。
    常陸国分寺跡 (国指定特別史跡)
     所在地:石岡市府中五丁目1番
     指定年月日:昭和27年3月29日
     国分寺・国分尼寺は、天平13年(741)聖武天皇の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院である。
     国分寺は、金光明四天王護国之寺といい、金字金光明最勝王経一部を安置した七重塔を設け、常住の僧二十名と、最勝王経十部を置いた。寺院の財政は、封戸五十戸、水田十町によってまかなわれた。
     常陸国分寺跡は、昭和五十二年の発掘調査により、現本堂西側に鐘楼基壇(鐘つき堂の基礎)が発見され、次いで、昭和五十六年から二次にわたる発掘調査では、各伽藍(主要建造物)の基壇の規模が明らかにされた。特に、金堂跡については、現在残されている基壇の約四倍の規模をもつことが明らかになり、大建造物を有する寺院であった。
     近年の研究では、今まで判明していなかった七重塔の位置が、寺域東側に指定されている。寺域は、東西約二七〇メートル、南北約二四〇メートルの規模を持っていた。
     常陸国分寺跡発掘調査で出土した遺物は、瓦が主体であるが、その中でも、創建瓦(複弁十葉蓮華文軒丸瓦)は、平城京羅城門跡で発見された軒丸瓦と同系の紋様であることが注目される。これは、国分寺建立に際し、当時の政府が瓦工の派遣などを含む、技術指導をしたことを物語っている。
         昭和60年1月   石岡市教育委員会・石岡市文化財保護審議会
外の車道沿いにはもっと詳しい由来書が立っていた。
     常陸国分寺由来
     常陸国分寺は、今を距る千二百年程前、聖武天皇の御代、天平13年(741年)勅命を以って天下諸国六十六ヶ所に建てられたその一つであって、上古常陸国府の所在地であった府中(現在の石岡市)に置かれました。ひとくちに国分寺とは国分僧寺、国分尼寺両方を併せていうのであって、僧寺は「金光明四天王護国之寺」と称し最勝王経を読誦し、国土安泰、万民息災を祈願、尼寺は「法華滅罪之寺」と称し法華経の功徳を以って未来成仏を祈願したところであります。
     倶に皇室の祈願所として、一国の財力と民力をつくして造営せられた護国救世の大道場であり、僧寺尼寺併せて定住僧三十名、封戸五十戸水田二十町歩が付され、寺域は六十町歩に達し何れも東西南北に大門があり、南には大門の次に中門があり、その中に並び立つ幾多の堂塔伽藍は、恰も当時の塾せる仏教芸術の粋を集めた当国一の壮大華麗を極め、就中、雲を突く七重の塔及び金堂は京都東寺にも優る建築であったと伝えられています。殊に当時の経営に施入した一ヶ年の寺料、稲束六万束は全国国分寺中最首位を領し、これに依ってみるも如何に規模の宏大なるかを想像し得ます。実に奈良時代に於ける常陸の文化王国を開発した一大中心地でありました。
     然るに、何事にも栄枯盛衰はまぬがれ難く、国分寺創立以来百年間位はすこぶる盛大でありましたが、平安末期より鎌倉、室町時代と地方政治の変遷と共に、漸次衰兆をきたし、織田、豊臣時代に入り天正十八年(1590年)佐竹氏と大掾氏との戦いに際し兵火に蒙り、此の輪奐の美は勿論、列聖の宸翰に至るまで悉く烏有に帰してしまいました。
     現在の中門跡には、天正二年(1574年)完成しました「仁王門」が有りましたが明治四十一年(1908年)石岡町国分町の大火により延焼、名工春日作の金剛力士も首、手、足を搬出したのみでした。次いで元禄六年(1693年)本堂を再建せしが、文政五年(1822年)焼失、末寺千住院を移し本堂としました。しかし、これも、仁王門と同時に焼失、現在の本堂は明治四十三年(1910年)筑波四面薬師の一つを移したものです。  現在の僧寺、尼寺共にその跡には中門、金堂、講堂等の礎石が荒草の間に沈んで、ありし日の豪華の世を夢見るがごとく、一千年の沈黙を続けており、その他僧坊、廻廊、食堂、経堂等これに属する建物と覚しき礎石が発見されております。
     このように、往時の跡がはっきり残っているのは、全国国分寺でもめずらしく、大正十年(1921年)十月文部省より史跡として指定され、戦後は昭和二十七年(1952年)三月文化財保護法により、「特別史跡」として指定を受けています。
       平成元年五月建之
(常陸国分寺跡・国の特別史跡)
(国分寺由来書)
 寺社側には中門阯の石柱があり、その後ろには古い石畳みがあった。
 浄瑠璃山の石門を通って境内に入っていくと、道沿いには銀杏などの古木が聳えていたり、歴史を感じさせる雰囲気があった。
(中門阯の石柱)
(浄瑠璃山の石門)
 右手に常陸国分寺弘法大師堂があり、その奥正面に常陸国分寺本尊薬師如来のお堂が建っていた。
(弘法大師堂)
(本尊薬師如来)
 その右手に六角形のお堂があり、その前に都々一坊扇歌堂の説明板が立っていた。
      市指定有形文化財:都々一坊扇歌堂(建造物)
    都々一坊扇歌は,文化元年(一八〇四)医者岡玄策の子として久慈郡磯部村(常陸太田市磯部)に生まれました。幼少の折,病により失明同様となりましたが,芸の道を志し,船遊亭扇橋の弟子となりました。その後「よしこの節」「いたこ節」などを工夫して,新しく「都々逸節」を作り都々一坊扇歌と名乗りました。
    扇歌は,当時の政治や社会を批判したため,江戸追放の身となりました。その発端となったのは「上は金下は杭なし吾妻橋」の一句でした。江戸を追放された扇歌は,姉の嫁ぎ先府中香丸町の酒井長五郎の旅宿に身を寄せ嘉永五年(一八五二)四十八歳で没しました。昭和八年,都々一坊扇歌を記念し,町内有志の呼びかけにより扇歌堂が建立されました。
 扇歌堂の格子の隙間から中を覗くと、江戸都々逸会の名板の後に三味線を弾く扇歌の木像が見えていた。
 都々一坊扇歌については、今年5月の第6回水戸八景ウオークの時に扇歌の石像を見て説明を受けたことがある。扇歌は没したのがこの石岡市の府中だったのだ。扇歌堂の先の墓地入口に「扇歌の墓」と矢印の案内があったので、お参りして行こうと立ち並ぶ古いお墓を一つ一つ確かめながら歩いて行ったが見つからず、もう引返そうと思った時に、奥の入口から土地の男性が入ってこられたので「扇歌の墓はどこにあるのでしょうか」と尋ねると「この先だけど、分かりにくいんだよ」と言いながら案内してもらえた。それは通路わきの森山家の墓地区画内に酒井家の墓や扇歌の姉の墓などがあり、その中で半分に折れたお墓が扇歌の墓とのこと。「主が扇歌の墓は守ると言っていたのに、壊れてもほったらかしだ」といってご不満の態だった。
(都々一扇歌堂・石岡市指定文化財)
(酒井家の墓地)

 墓地の表側に建っている立派な建物が常陸国分寺の本堂で、その前には阿波青石など置かれた庭園があり、その向こうに重厚な萱葺屋根をもった入口門があった。門を潜って外に出ると旧千手院山門の説明板が立っていた。
      市指定有形文化財 旧千手院山門(建造物)
       所在地:石岡市府中五丁目1番
       指定年月日:昭和53年9月11日
     千手院は、弘仁9年(818)、行基大僧正の弟子行円上人によって開基され、建長4年(1253)の第11世心宥上人が没するまで続いたと伝えられる。その後の記録は残されていないが、天正元年(1573)には、京都東寺宝菩提院の禅我大僧正の弟子朝賀上人によって中興されたといわれる。
     近世の千手院は、府中における大寺のひとつで、「新編常陸国誌」にも、「千手院、本寺東寺宝菩提院、朱印地十石、菩提山来高寺と号す。末寺二ヶ寺門徒二十一ヶ寺、又門徒二ヶ寺あり」と記されている。これら千手院末の寺院は、その大部分が府中の町にあり、人々の信仰を集つめたが、明治初年にはそのほとんどが廃寺となっている。
     また、千手院も大正8年(1919)3月、国分寺と合併して廃寺となり、現在ではこの山門が残るのみである。
        昭和60年3月 石岡市教育委員会・石岡市文化財保護審議会
(常陸国分寺本堂)
(旧千手院山門)
 地図によると、常陸国分寺跡の北西の若松3-1に常陸国分尼寺跡があり、ナビに指定して向かうと、広い草原脇に着いた。あらかじめ仕入れていた常陸国分尼寺跡についての知識は
     天平13年(741),聖武天皇の勅願により,常陸国の寺として建立された。
    常陸国分尼寺跡は法華滅罪之寺と称し,法華経の功徳により未来成仏を祈願したものである。発掘調査の際,「法華」の墨書銘のある土器(土師器)が出土し,この寺が法華滅罪之寺であることが証明された。
     現在,国の特別史跡に指定され,史跡公園として整備がされ,市民の憩いの場として親しまれている。
 何か国分尼寺を示す名板が立っていないかと思って周りを歩いてみたが、「球技は駄目」とか「不法投棄禁止」「殺虫剤散布」のなどがあるだけで、この草原が常陸国分尼寺跡であることを示すものは何もなかった。
 屋根の上で作業中の大工さんが見えたので「ここが常陸国分尼寺跡ですか」と尋ねると「そうだよ。説明板は向こう側に見える櫻の木の近くにあったと思うよ」とのこと。
 車で反対側に走って住宅街の狭い道に入ると広場への入口があり、狭いところに無理やり車を停めて、歩いて広場に入ると石畳の道があった。
(常陸国分尼寺跡)
(回廊跡)

 石畳みの道を歩いて桜の木の近くまで行くと、大工さんがおっしゃっていた通り説明板が立っていた。
    国指定特別史跡 常陸国分尼寺跡
     所在地:石岡市若松三丁目1番
     指定年月日:昭和27年3月29日
     国分寺・国分尼寺は、天平13年(741)聖武天皇の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院である。
     国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、常住の尼僧10名を置き、寺院の財政は、水田10町によってまかなわれた。一般に国分尼寺は、国分寺より早く衰退したらしく、今日では、その遺跡すらどこにあるのか不明なものが多い。
     常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石群が基壇上にあって保存され、全国的に見ても極めて貴重な遺跡である。昭和44年から4次にわたる発掘調査により、各建造物基壇の規模や南大門跡、北方建物跡、西及び北を限る溝跡などが明らかにされている。
     発掘調査で出土した遺物の中には、瓦類や土器などがあるが、瓦類は常陸国分寺跡出土のものと同形のものが多い。また、土器の中では、「法華」の墨書銘のある土師器が出土しており、法華滅罪之寺を証明する資料となっている。
 見えているのは中門跡や金堂跡らしい。
(常陸国分尼寺跡)
(中門跡・奥に金堂基壇。)

 国分尼寺を南に下ると、石岡小学校の周りに常陸国府阯や常陸国総社宮など厳めしい名前の史跡があるようなので、ナビに総社1-2を指定して車を走らせる。途中、若宮八幡宮の案内板も見えたが通過、石岡小学校近くまで来ると駐車場が見えたので、車を停めて外に出ると、すぐ目の前に堂々とした構えの真新しい門が見えた。陣屋門と言う史跡で、石岡市HPによれば、石岡藩陣屋の設備の中で明治初期に唯一残されていた陣屋門が小学校の校門として再利用され、以来数度移築もされたが、つい最近此の地に改築されたばかりとのこと。
    一方、府中には、現在の市民会館や石岡小学校の敷地一帯に「陣屋」と呼ばれる役所が置かれ、郡奉行以下、手代、足軽、中間から門番など総勢20余名が民政を担っていました。
    県指定文化財「石岡の陣屋門」(以下、「陣屋門」)は、陣屋にいくつかあった門のうち、表門に当たります。現在に残るのは、文政11年(1828)に建築されたもので、火災にあった江戸屋敷を再建した際、その余った材料を使って建築したと言われています。
    それから約45年を経た平成25年、大規模改修のために陣屋門が解体されたのを期に、市民から多くの要望書が市長に出されました。内容はいずれも、陣屋門を元の位置に戻すことを求めるものでした。多くの市民は、移築から45年を経てもなお、陣屋門に思いを残していたのです。
    平成26年初頭、市は陣屋門を元の位置、もしくは極めて近い位置に再移築する考えを固め、交通状況などを考慮して、元の位置より数メートル南、市民会館駐車場内に移すことにしました。そして迎えた5月。いよいよ再移築に向けて事業が始まりました。
 陣屋門を潜るとすぐ町の通りに出て、そこにあった案内板に従って歩いて行くと、白地に黒々と「常陸国総社宮」と書かれた大きな門柱があり、ここを曲がると石の大鳥居があった。
(陣屋門)
(常陸国総社宮入口)
 大鳥居の奥の古木の林に、昔からの古い石灯篭と、平成になってから年々作られてきた年番灯篭とが立ち並ぶ参道が続いていた。
 突き当たって左に曲がると、屋根囲いの土俵のような所があったが、もしかして車のお祓い所かも。
(参道)
(土俵?)
 鄙びた藁屋根の隋神門があり、右大臣、左大臣はどんなお方かと覗いてみたが、格子の中のガラスの反射で拝顔することは出来なかった。
 隋神門の中の境内には、右手に数々の境内社、左手に手水舎、参集殿、社務所、神井、神楽殿、拝殿、奥に御本殿と神殿が立ち並んでいて荘厳さを醸し出していた。
(隋神門)
(境内)
 右手奥に、日本武尊の腰掛石があり、脇に常陸風土記勅撰1300年記念の手塚プロダクションの日本武尊を描いた漫画看板が立っていた。
 一番奥に大きなご神木があり「樹齢500年の大樟(くす)は、昭和39年の拝殿を焼失する大火の際の猛火にも耐えて春には瑞々しい新緑を見せてくれますが、黒くこげた木肌は今も痛々しく残っています」とのこと。
(日本武尊の腰掛石)
(ご神木の楠)
 常陸総社宮から出て脇道で引き返して、小学校が見えてくると「府中城の土塁」の説明板があった。
     府中城の土塁 (市指定史跡)
     府中城は、正平年間(1346〜1370)大掾詮国により築城されたといわれる。天正18年(1590)12月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城した。
     落城後は、義宣の叔父佐竹義尚が城主となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこりを領した。その後元禄13年(1700)松平頼隆が封じられ、この地に陣屋を置いた。
     城の規模は東西約500メートル、南北約400メートル、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、また、堀・土塁をめぐらした堅固な城郭であった。現在では、土塁や堀の一部が残されており、当時をしのぶことができる。      昭和60年3月   石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会
 その左に「箱式石棺」の説明板があり、脇の石の御棺があり、その奥にお城の土塁のような盛り土が見えていた。
    箱式石棺(舟塚山古墳群第九号墳出土)
     この石棺は、石岡市北根本六八一番地より、昭和五十一年の発掘調査によって発見されたものである。古墳は、今から約一三〇〇年前のものと推定され、一辺約一三メートルの方形をあらわした古墳で、周囲に幅一・五メートル、深さ六十センチメートルの溝をめぐらしている。
     石棺は、扁平な板石を組み合わせた箱式石棺で、蓋石五枚、側石八枚、妻石ニ枚の計十五枚でつくられており、床石には十五センチメートルの小石を敷きならべている。
     石棺内部には、人骨二体が埋葬されており、初め一体を埋葬し、後にもう一体を埋葬するという追葬の形式がとられていることが確認された。
     関東における箱式石棺の分布をみると、茨城県に最も多く、なかでも霞ヶ浦周辺に濃密な分布をしめしている。年代的には、古墳時代後期(約一五〇〇年前)頃から出現するのであるが、本古墳のように飛鳥、奈良時代に入ってつくられたものの方が、数多くみられる。
     石岡市教育委員会
(府中城の土塁)
(箱式石棺)
 その奥には、のっぺらぼうのお地蔵さん?があり、脇に「風間阿弥陀」の立札があった。
    風間阿弥陀 (市指定有形文化財(考古資料))
       所在地:石岡市総社一丁目2番10号
       指定年月日:昭和55年6月
     府中土橋の風間氏屋敷内に安置されていたものが、現在地(石岡小学校敷地内)に移設されました。
     この像は粘土で固められた特異な形をしていて、ご本尊は地中に埋められていると言い伝えられています。
     風間氏は小栗城主小栗助重の家臣で、康正元年(1455)小栗城陥落の際、常陸府中の大掾氏を頼って逃れてきたのですが、このとき阿弥陀像を持ってきたと伝えられています。
 その隣には、常陸国風土記の編纂者の一人藤原宇合の歌碑があった。
    (藤原宇合大夫 、 遷任して京に上る時 常陸娘子の贈る歌
    「庭に立つ 麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな」
    (麻を、刈ったり干したり晒したりしていた東国の女を忘れないでください)
(風間阿弥陀)
(藤原宇合歌碑)
 駐車場すぐ近くまで来ると「常陸国府跡」の標石があり、その奥、小学校敷地の角の高みに「常陸のみやこ 一千有餘年之地」の標柱が立っていて、石岡がその昔、常陸の地の政治の中心地であった歴史を示していた。
     常陸のみやこ 一千有餘年之地
     この石岡小学校敷地一帯は、今から約1300年前に常陸国の国衙が置かれた場所と推定されています。この国衙を中心として現在の石岡市域全体を領域とする常陸国府としての古代都市が建設され、常陸国の政治・経済・文化の中核的な役割を果たしました。
     しかし、この繁栄を極めた古代都市は、10世紀半ばに起こった平将門の乱によって破壊され、やがて、この地には南北朝時代から戦国時代にかけて、大掾氏によって府中城が築城されました。大掾氏滅亡後、幾人かの領主が交替すましたが、何れもこの府中城の地に支配の拠点を構えました。そして、18世紀の初頭、水戸徳川家の御連枝府中松平氏の領地となってこの地に府中陣屋が建設され、明治維新に至る160年間、その支配が続きました。
     近代になると、この一帯には教育施設が相次いで建設されました。まず明治6年に石岡小学校が開校、明治43年に新治郡立農学校(現在の石岡一校、のち大字石岡に移転)、大正元年に石岡実科女学校(現在の石岡二高、のち府中五丁目に移転)、昭和22年には石岡中学校(のち東石岡四丁目に移転)が開校しました。
     このように、この地は石岡の枢要として古代から近代に至る歴史を重層的に担ってきたのです。ちなみに、この石碑の位置は、中世府中城の土塁であり、昭和戦前期に、石岡小学校の奉安殿が建てられていた場所です。
        平成8年8月  石岡市教育委員会・石岡市文化財保護審議会
(常陸国衙跡標石)
(「常陸のみやこ 一千有余年之地」碑)

 メモの残っていた府中城跡の総社1-10を指定して車を走らせたが、着いたところは住宅街の真中、来合わせた女学生に訊いたところ「府中城は小学校のところだと思いますけど」とのご返事、「府中城跡で残っているのは土塁だけ」と読んだのを思い出した。日立に帰ろうと高速ICに向かうと、角に「宮部不動院入口」の案内板が見え、私一人で立ち寄ってみる。和子は「暑いから今日はもういい」と言ってクーラの利いた車で待つ。入ったところはお寺の裏手だったようで、広い墓地を抜けたところに改築されたばかりのような本堂があり、その脇に古びた虚空蔵堂、その前には鐘撞堂や山門があり、なかなか歴史のある寺院のように見えた。案内板によれば
     不動院の文化財 (県指定文化財)
     寺号:明王山虚空蔵寺不動院(真言宗)
     不動院は天正年間(1573-1592)に佐竹氏が府中城を攻めた際、戦火を受けて古記録を焼失した。開基などは不明であるが、寺伝によれば、明応2年(1493)醍醐三宝院(京都市伏見区)の弘範が中興したと言われる。
     明治29年(1896)豊山神楽院長谷寺(奈良県桜井市)の直末となり、寺宝には、15世了伝が徳川家康も他界の諷経に参加し賜った法華経8軸、三宝院から与えられた法塔鈴、山口次郎衛門寄進の後光明天皇宸翰といわれるものなどがある。
 車に戻って石岡千代田ICに向かうと筑波山が見えてきて二人の目を喜ばせてくれた
(宮部不動院本殿)
(鐘撞堂と山門)
  

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