D33.東京見物(兄弟会)

1.動 機
 全国に散らばっている川本家の5兄弟は、3年前に2回の兄弟会を開いて久しぶりに顔合わし、お互いの元気を喜び合った。その後、昨年10月に新潟在住の姉のご主人が亡くなられ、その葬儀の会場で顔合わせはしたが、またあらためて顔合わせすることになっていた。幹事役の松戸市在住の三男の綿密な計画のもと、兄弟の懇親を深めることができ、見所満載の東京見物も楽しんできた。初日の懇親会席上では故人になった新潟主人の叙勲報告があり、2年前の長兄に続いての叙勲に兄弟一同喜び合った。

2.データ
a)山域:東京市内
b)登山日:2016/3/16(水)〜18(金)
c)日程:
    16日:自宅= 大甕駅 = 東京駅= キッテビル前集合= (ジャンボタクシ: 国立近代美術館、東京タワー、お台場公園、迎賓館、新国立競技場)= ホテル---- 15:40料亭(懇親会)---- ホテル
    17日:ホテル=スカイツリー=浅草駅----アサヒビール本社ビル(昼食)----浅草寺----浅草リトルシアタ----花やしき=隋園別館(懇親会)=ホテル
    18日:ホテル=上野公園口(兄弟会と別れる)----上野駅乗場=救急病院=上野駅=大甕駅----自宅
(東京見物の観光ポイント)
d)同行者:姉、長男、三男夫婦と長子(懇親会出席)、末弟夫婦、和子

3.山行記録
3.1 一日目
    自宅9:35 ---- 10:00大甕駅10:10 = 11:40東京駅 = 11:55キッテビル(昼食・集合)13:55 =(以後ジャンボタクシ)= 14:20国立近代美術館15:00 = 15:10東京タワー15:55 = 16:10お台場公園16:20 = 17:00迎賓館17:05 = 17:35新国立競技場 = 18:05ホテルルポール麹町18:45 ---- 18:50割烹麹村(懇親会)21:45 ---- 21:50ホテルルポール麹町(泊)
 朝ゆっくりと我家を出て、大甕駅で特急に乗って東京に向かう。今日は曇り空だが、愛宕山や筑波山がくっきりと見えていた。今日は曇だが、明日、明後日は晴天の筈だ。
 今日の集合場所は東京駅の南にあるキッテビル前になっている。常磐線も上野乗換なしで東京駅まで直通になって、1時間半で到着、キッテビルも去年の日光ー東京バスツアーの時に案内してもらったことがあるので、迷わず行く事が出来た。ビルの前の吉永小百合の写真の真似をして撮ってから、幹事に紹介されていたキッテビル地階のレストランで昼食をとり、集合時間まで6階の展望室に上がって東京駅前の工事状況などを眺めて楽しんでいた。 
(愛宕山)
(キッテビル前)
 集合時間前に一階に下りて外に出ようと思ったが、出口を間違えて警備員の検問にあったりしてウロウロしている間に、「もうみんな集まっています」と携帯が入ってきた。あらためて入ってきた入口前に出ると、皆さん揃っていて笑顔でお出迎え。今回の参加者は新潟の長姉、大阪の長兄、二男の我が家夫婦、松戸の三男夫婦、大阪の四男夫婦の8名、幹事役は三男夫婦が勤めてくれる。幹事から挨拶があって、行程の再確認後、各自で代金の異なるホテル代を除いて、三日間のタクシー代、観光ポイントの入場料、昼食代、懇親会費全てを含んだ会費が集められた。これから先は、日立への電車に乗るまで気付かい不要のらくちんツアーである。
 その後で40枚のクリアファイルにぎっしり詰め込まれた分厚い資料を手渡された。開いてみると、今回の観光ポイントについての資料のほかに、母方を含めた詳細な川本家の家系図や故郷の古地図、先祖様の写真なども入っている。家系図は以前からメールや手紙で何度も伝えられていたが、今回はその修正版、あちこちの役所から古い戸籍簿を取り寄せて綿密に検討を続ける緻密さは、私のいい加減な性格とはまるで違っていて同じ兄弟とは思えない。
 やって来たジャンボタクシに乗って予定より10分早く出発。今日は一日このタクシ貸切で観光地巡り、途中の建物などについても幹事さんから色々と解説がついて、バス観光旅行以上の気分。
 車は皇居前まで出てから皇居周りの内堀通りを走り、大手門などを見ながらぐるりと回って北の丸公園前まで走った。
(ジャンボタクシ)
(皇居前まえ)
 右に東京国立近代美術館本館が見えてきたが、案内書にあるお目当ての明治風情の工芸館はその一つ先にあった。右折禁止なので500m先まで走ってUターン、路側で車を降りて向かった東京国立近代美術館工芸館の入口には「芹沢_介のいろは」の看板が立っていて、「いろはに」の変わった書体があった。
 この工芸館は旧近衛師団司令部庁舎だった建物で、明治洋風煉瓦造建築の典型として国の重要文化財に指定されているとのこと。みんな盛んにシャッタを押した。
(いろは展)
(東京国立近代美術館工芸館)
 館内に入ると、変わった書体の「いろはにーーーえひもせす」の屏風や、装飾文字を染め込んだのれん、下絵など、金子量重氏寄贈と言う芹沢作品430点が展示されていた。今も書道に精進している長姉はじっくりと鑑賞しており、幹事からは色々と解説が入る。幹事役の三男は趣味が広く、日頃から絵も描いてて、解説にも説得力がある。
(屏風)
(のれん)
 ゆっくり美術鑑賞してから工芸館を出て、乾門の交差点向かいで待っていたジャンボタクシに乗り込むと、車は再び皇居周りを走り、国立劇場や最高裁判所、国会議事堂を眺めながら走って国道1号線へ入る。国道1号と聞いて嬉しくなったが、途中には沢山の高いビルが立ち並んでいて何か説明があったようだが、名前は全く記憶に残っていない。
(乾門)
(国会議事堂)
 東京タワーに着いたが、大型車の駐車場はタワーの裏っ側、車を降りてからイルミネーションの飾り付けのあるトンネルを潜ったりして、表に回ってエレベータに乗った。
(裏側からの東京タワー)
(表に回る)
 展望台からは東京のビル街が全部見渡せ、せっせと写真は撮ったが、東京には不案内、後からみてもどっちを向いて撮った写真かわからない。
 霞んでいて遠くの山は見えなかったが、スカイツリーが薄く見えていたのかな。すぐ下に見えるのは増上寺とのこと、その広大さに感じ入る。
(ビル街展望)
 展望台の数か所の床面がカラス窓になっていて、真下を覗けるようになっていた。高所恐怖症の長兄も気持ち悪がってはいたが、カメラのシャッタはしっかり押していた。
(床面のガラス窓から)
(床面のガラス窓から)
 タワーを下りて車に乗ると、今度は首都高に乗って東京港方向に走って、美しい姿を見せるレインボウブリッジを渡って一行を喜ばせてくれた。ブリッジの上からは東京都心のビル街が全部見えていたが、どれがどこなのか。せめて東京の地図ぐらいは持ってくるのだった。
(レインボウブリッジへ)
(レインボウブリッジから)
 台場出口で高速を下りてお台場海浜公園に向かうと、歩道の向こうにニューヨークで見たような平和の女神像が立っているのが見えた。歩道の下を通って女神像の前で記念写真の撮り合いをした。
 遊歩道を少し歩くと気持ちの良い海岸縁に出て、渡ってきたベイブリッジが見えていた。浜辺では写真を撮りあっている一団があったが、話し声は中国語のようだった。


(←平和の女神像) (↑東京湾)
(お台場海浜公園)
 お台場公園を出て一般道を走ると、 テニスコートがいっぱい並ぶ公園を通り、有明コロシアムの先から左に曲がる。有明コロシアムにも室内テニスコートがあるのだという。
 その先に広い建物が見え、これは建設中の新しい魚市場で、この辺り一帯が築地市場に代わる都民食料の新しい卸売市場になるとのこと。
(有明コロシアム)
(豊洲新卸売市場)
 やがて林立するビル街が見えてきて、その先で隅田川にかかる勝鬨橋を渡る。和子のおばさんが築地魚市場で仲買人しており月島に住んでいて、遊びに来た時には橋が上がるのを何度も見に来ていたという。今は橋桁が開くことはない。 
(ビル街に戻る)
(勝鬨橋)
 隅田川を渡るとすぐに歌舞伎座が見えてきて、交差点から賑やかな銀座通りを見ながら通り過ぎる。
(歌舞伎座)
(銀座)
 間もなく皇居の桜田門前を通過し、永田町の官庁街を通って赤坂御用地前まで来ると、タクシは迎賓館の正門前に横付けされた。
 正門は派手やかな色合いで、左右の門扉には金ぴかな菊の御紋章があった。
(迎賓館正門)
(御紋章)
 門扉の間から本館の建物を覗きこみながら、あそこにご招待されてみたいねと身分違いな戯言を言い合った。
 左右に守衛所があり、和子を守衛さん代わりにしてシャッタを押してみた。
(迎賓館本館)
(守衛さん)
 今日は迎賓館までかと思ったら、2020年の東京オリンピックの主競技場になる新国立競技場建設の現状を見に行きましょうと案内された。都内観光をしながら30分も走って山手線を越えると代々木公園に着き、その向かいに吊り屋根構造が美しい体育館が見えてきた。前に工事車両がたくさん停まっていたので、これが新国立競技場かと早合点したが、これは代々木体育館だとのこと。建築専門の幹事からアーチ構造について実物を見ながらの説明を受ける。
 その先で広大なNHK放送センタの周りをぐるりと回って引返し、新国立競技場の建設予定地に案内される。
(代々木体育館)
(NHK放送センタ)
 旧国立体育館は既に解体され、この跡地に新らしい国立競技場が建設されるとのこと。もう暗くなり始めていたからか、動く車中から撮った写真には旧体育館の跡地は残っていなかったので、代わり近くにあった明るい聖徳記念絵画館が写っていたので載せておきましょう。
 夜の街を眺めながら走って、今日から二晩お世話になるホテルに入って一休み。
(聖徳記念絵画館)
(夜の街を走ってホテルへ)
 今夜の懇親会はホテル近くの料亭麹村、ぶらぶら歩いて5分ほどのところだった。
 麹村に入ると、用意されていた部屋は和室で、座卓を囲んで和やかな懇親会になった。5兄弟夫婦だけでなく、三男夫婦の長男が出席して明るい話題で座を賑わせてくれた。川本家とは思えないほど背が高くてすらりとしたハンサムボーイ、朝配布されたファイルに入っていた写真を見ると、母方の実家の主人がすらりと背が高く、この家系のDNAを引き継いでいるということになった。
(料亭麹村)
(兄弟会)
 昨秋新潟の姉のご主人が叙勲された。メールで紹介はされていたが、今夜はその勲章の実物や経緯が紹介された。ご主人が昨秋亡くなられたすぐ後に叙勲者として大学から推薦され、天皇陛下が叙勲者名簿の中に故人の名前を見付けられて、「お悔やみを申し上げるように」との指示があったと侍従さんから電話があったとのこと。天皇陛下に何度か御進講したことがあったと聞いており、講義の内容も印象深かったのだろうが、多くの御進講者の名前を一人一人覚えておられる天皇陛下に頭が下がる。
 今回受けた勲章は端宝小授章で、二年前に長兄が受けた端宝中授章より一つ下だが、故人になってからの受勲だったのでしようないこと。持参された実物は中綬章と同じように金ぴかで有り難い形をしていた。存命中に本人に見て欲しかった。
 叙勲記念に菊の御紋が入った漆塗りの印肉が配られた。直径9センチ以上もある大きな印肉で、受勲の証書に押されている「大日本国璽」の印鑑にも対応できそうだ。
(端宝小綬章:箱と勲章)
(記念品の印肉)
 端宝小授章の叙勲を受けたことを証する勲記と、従四位を叙されたことを証する位記がコピーで紹介された。初めて聞く平安時代に帰ったみたいな「従四位」のことを少し調べてみると、下記記述があった。
    明治時代には、従四位は華族の爵位では男爵の初叙位階に相当し、陸軍・海軍では中将相当とされた他、叙位条例にて、勅授の対象となり華族に準ずる礼遇として位置づけられた。現在は功績のあった物故者に位階が発令されており、公務員として功績のあった者や、受勲を受けた芸術家、学術研究に功績のあった学者、芸能・文化活動に功績のあった芸能人などが叙せられている。
(叙勲証書:勲記)
(叙位証書:位記)
 ビールで祝杯を挙げ、次々出てくる御馳走を頂きながら、元気な現状報告や尽きない思い出話に花が咲いた。
 2時間も語り合ってお開き、ホテルまで気分よく歩いて帰りました。
(乾杯)
(ホテルへ)
3.2 二日目
    ホテルルポール麹町8:25 = 9:05スカイツリー10:25 ---- 10:25郵政博物館館11:25 ----12:07スカイツリー駅 =(東武線)= 12:18浅草駅 ---- 12:25駒形橋12:30 ---- 12:40プラムドール(昼食)14:00 ---- 14:05吾妻橋14:15 ---- 14:20雷門 ---- 14:35浅草寺本堂 ---- 15:10浅草リトルシアタ 15:50 ---- 16:10浅草公会堂前 ---- 16:35花やしき公園17:15 = 18:10隋園別館20:35 = 20:45ホテルルポール麹町(泊)
 ぐっすり眠って気持良く起きると、丁度ビルの間からお日様が昇るところだった。日が昇って明るくなると、11階の部屋からの眺めももう東京タワーに登った気分。
(日の出)
(朝のビル街)
 ホテルの朝食をとってからフロント前に集合、今日は幹事三男は長兄と我が家を連れ第一グループ、幹事夫人は長姉と4男夫婦を連れて第二グループとして、それぞれタクシーを拾いながら観光ポイントを繋いでいく。
 タクシーは最初のポイントのスカイツリーに向かい、国技館前を通っていった。スカイツリーには開場直前にすぐ傍まで行って見上げたことがあるが、その後展望台に登ってみたいと思いながら果たせないでいたので、幹事にお願いして今回の観光ポイントに加えて貰ったもの。
(タクシを)
(国技館)
 第一グループはタクシーをイーストタワー側に着けてツリーを見上げながら歩いていると、第二グループから「もうツリーの3階で待っているよ」との連絡あり、急いでソラマチを通り抜けて入口に向かった。
(ソラマチ側から)
(交流広場から)
 無事3階で合流し、4階からエレベータに乗って350mの展望デッキに上がる。目の前に富士山がくっきりと見えていてみんな歓声を上げて窓際に走り寄って展望を楽しむ。今日は絶好の好天気、浅間山も雪を頂いて白く見え、双耳峰の筑波山も独立峰のように目立っていた。
(展望台)
(富士山)
 展望を楽しみながらフロアーを回っていくと綺麗な唐傘を飾り付けたベンチが置いてあって記念写真を撮っている人もいた。
 「あれ見て!」の声がかかり、下を見ると影富士ならぬ影ツリーがクッキリと見えていた。
(記念撮影ベンチ)
(影ツリー)
 340mフロアまで下りると、床面に真下のソラマチの屋上や東武線の線路が見えるガラス面もあった。
 エレベータに乗って5階に下り、更に乗り継いで3階まで下りて渡り廊下を歩いてソラマチに向かう。
(ソラマチ屋上を見下ろす)
(ソラマチへ)
 ソラマチの屋上には公園のようになっていて、ドームの向こうにスカイツリーが格好良く見え、反対側のイーストタワーのガラス面にはスカイツリーがクッキリと写っていた。
(8階庭園から)
(イーストタワーのガラス壁)
 イーストタワーに入って9階まで上がって、目玉の一つの郵政博物館に入場した。
 館内には郵便、通信に関する収蔵品を数多く展示してあり、故郷の昔の郵便局の姿も思い出させるものもあった。
(郵政博物館)
(郵便の歴史資料)
 郵便の歴史についての説明板が続き、その奥には世界の33万種もの切手が、縦型のトレ―に収納され、引き出しながら眺めていく。
 その奥には「奥の細道切手原画展」という企画展示コーナがあって、昭和の末ごろ発行された「奥の細道シリーズ」の切手の原画を展示していた。絵画をたしなむ三男が解説しながら案内してくれた。
(奥の細道集)
(世界の切手閲覧)
 ソラマチに戻って、色々な店舗が並ぶ通りを歩いて行くと、飴細工を実演しているお店があった。器用な手つきで飴を熱して柔らかくしながら細工している。展示してある飴細工は、透明な飴色が精緻な形と引き立たせていた。
(飴細工)
 次は昼食会場はアサヒビール本社ビル内にあって、ここから歩いて行くこともできるが面白い道ではない。東京の電車にも乗ってみたいとの希望もあって、東部鉄道のスカイツリー駅から電車に乗って浅草駅まで移動した。
 浅草駅からは駒形橋の袂まで歩くと、首都高の高架の向こうにスカイツリーがスッキリと見えており、その左に巨大な高層マンションと並んでアサヒビール本社のビルが立っていた。あそこまで散歩して昼食にありつける。
(東武鉄道駅)
(駒形橋前から)
 隅田川を眺めながら駒形橋を渡り、首都高高架の下の隅田川沿いの遊歩道歩いて昼食会場に向かった。
(駒形橋を渡って)
(隅田川沿いを歩き)
 途中、アサヒビール本社ビルの手前のビルの屋上に人参のような形をした金色のモニュメントが大きく見えてきた。説明によればこれは「聖火台の炎」で、「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心」を表わしていて、アサヒビール100周年の記念事業の一環として造られたとのこと。
 アサヒビール本社ビルの中に入ってプラムドールというレストランに入った。三種のビールの味比べを飲みながらランチを美味しく食べて、食後のスイーツも頂いた。
(聖火台の炎)
(昼食)
 今度は吾妻橋を渡って浅草側に戻った。橋からは「聖火台の炎」が綺麗に見え、隅田川の遊覧船乗場も見えていた。
(吾妻橋にて)
(吾妻橋から)
 浅草駅前に戻って、今度は浅草地区探訪に出かける。通りには人力車の車列がお客を待ち構えていた。
 雷門を潜って仲見世通りに出て浅草寺に向かう。
(浅草へ)
(雷門)
 仲見世通りは凄い人並み、青い目や大きな話し声からすると半分は外国人のように思われた。浅草は日本観光の目玉にもなっているのだろう。
(仲見世通り)
(宝蔵門)
 宝蔵門を潜って本堂前に出て、通りの真ん中にある香炉の煙を腰と頭にかぶりながら、健康を祈願した。
 隣の五重塔は格好いい。
(本堂)
(五重塔)
 本堂の近くで、今まで気が付かなかった鳩ポッポの歌碑と九代目市川団十郎の銅像などを案内された。
 鳩ポッポの歌碑と聞いて小学校唱歌の「ぽっぽっぽー」だと思ったが、碑に彫られた歌詞は「鳩ポッポ はとポッポ ポッポッポと とんでこい お寺のやねから下りてこい えさをやるから皆たべよ 食へてもすにかえらずに ポッポッポと鳴いて遊べ」とあり、音符も大分違っていた。東くめの作詞で滝廉太郎の作曲になり、唱歌の原曲とのこと。
(鳩ぽっぽの発祥の碑)
(市川団十郎像)
 境内の端からはすぐ近くの花やしき公園のい鉄塔が見え、スペースショットが急上昇、急降下を繰り返しているのが気になった。
 その先の奥山門から浅草寺の境内を出た。この門を通るのは始めだ。
(スペースショットの鉄塔)
(奥山門)
 計画時点では浅草演芸ホールに入る予定だったが、時間が上手く合わず、浅草リトルシアタという小さな演芸場に入った。世界で一番小さな劇場を謳い文句で、浅草の若手芸人に出演機会を与えてるらしく、若い芸人が入れ代わり立ち代わりと出てきて、一生懸命の演技で館内を笑わせていた。
(浅草リトルシアタ)
(若手芸人)
 リトルシアタ―で40分ほど楽しんでから、街に出て浅草六区を散歩して、浅草公会堂前の歩道に埋め込まれた有名人の手形を見に立寄った。いつも見ているTVの「長七郎江戸日記」の里見浩太郎の手形に私の手を入れたらぴったり合って喜んだ。
(公会堂前歩道の手形)
(ピッタリだ)
 懇親会の予約時間まで時間があるのでどうしようかとなり、私の提案で先ほどスペースショットが見えた花やしき公園に入ってみることにした。入場料は64才以上はシニア割引で半額になって喜んだが、スペースショットに乗ろうと思って乗物券売り場に行くと、65歳以上は乗車不可とのご宣告にがっかりさせられた。
(花やしき公園)
(年齢制限)
 池の畔の休憩所のベンチに座り込んで、スペースショットから聞こえてくる悲鳴を羨ましく聞きながら、おしゃべりで時間を潰した。
(スペースショット)
(休憩所で歓談)
 今晩の懇親会場の隋園別館は新宿御苑のそばで浅草からは遠く、東大脇を通ったりしながらタクシで1時間近く走って予約時間ピッタリに到着した。
 隋園別館は中華料理屋で円卓の周りに陣取ると、次々に美味しそうな料理が運び込まれてきた。
(隋園別館)
(次々出てくる中華料理)
 お酒も紹興酒の乾杯で始まり、続いてビールも追加注文して、調子を上げてぐいぐい飲みながら料理もお腹いっぱい以上に詰め込んだ。ワイワイ言っている間に2時間半の予定時間になり、それでも食べきれなかった料理を前にして記念写真を撮った。
 タクシに乗って気分よくホテルに帰り着いたが、時間が経つにつれお腹の具合がおかしくなってきて、翌朝には年甲斐もなくの暴飲暴食を猛反省することになった。
(お開き)
(夜の街)
 3.3 三日目
    ホテルルポール麹町8:35 = 9:00上野公園9:05 = 9:10上野駅10:00 = 10:20病院16:00 = 16:05上野駅16:30 = 17:50勝田駅18:20 = 18:35大甕駅 ---- 19:00自宅
 昨夜始まったお腹の異常は段々と酷くなり、今日に入ると下痢になり、朝まで一睡もできないまま朝を迎えた。今日の予定は、東京国立博物館と国立西洋美術館を見て、上野大仏、古墳、西郷隆盛像など見ながら上野公園を散策後、韻松亭で昼食をとって、14時に上野駅で解散することになっているが、朝食をとる気にもならず、みんなと一緒に行動できそうにもない。朝食もとる気にもなれず、幹事の三男に「今日は和子だけ参加して、私はどこかで休みながら待っている」と連絡すると「そんな体調なら、和子も一緒に早めに日立に帰った方が良いでしょう」との進言を貰った。
 お言葉に従って上野公園までタクシーで一緒して、みんなと別れて電車の指定を切り替えて、常磐線プラットフォームの休憩所で特急を待った。ベンチに座っている間に睡眠不足もあったのか私が失神状態になって和子は大慌て、休憩所にいた皆さんが協力して駅員や救急隊に連絡して貰えたらしい。正気が戻ったころ救助隊が駆けつけてきて、タンカに載せられ酸素吸入器と心電図測定器を取付けられて、救急車で近くの総合病院に搬送された。
 病院では色々検査してから「腸に体中の水分が貯まっている以外、身体の他のところには特に異常はなく、血液内の水分がなくなり、脳貧血になったものと思われる。との診断だった。二袋の補液を点滴して貰って何んとか歩くことができる状態になり、16時ごろ病院を出て、タクシで上野駅に戻った。 
(みんなを見送って)
(出直しの上野駅)
 特急電車に乗って、車窓から見える筑波山に「ただいま」と挨拶して、やっとの思いで我が家に帰り着くことができました。
(筑波山、ただいま帰りました)
 家に帰っても身体の調子はなかなか戻らず集中力もなくなって、このブログを書きあげるのにずいぶん時間がかかってしまい、年甲斐もなく暴飲暴食をしたことを猛反省しています。


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