D92.東京バス旅行
1.動 機
a)山域:上野またスーパのバス旅行の割引券が当たった。行先は東京で、「開運パワースポット・根津神社千本鳥居」「自然食ビュッフェ・大地の贈り物」「見どころたくさん上野公園」の三か所。上野公園は何度か歩いたことがあるのであまり魅力は感じなかったが、他にやることもないし最近他の人と出かけることもなかったので参加することにした。 2.データ b)登山日:2017/09/07(木)曇のち雨 c)コースタイム:自宅8:00 = 8:10スーパ駐車場8:15 = 8:30日立南IC = 8:35東海PA8:40 = 9:45守谷SA10:00 = 14:20首都高IC15:20 =10:55根津神社11:50 = 12:05大地の贈り物13:15 =13:30上野公園15:40 = 16:00首都高IC = 16:40守谷SA 16:55 = 17:40東海PA17:50 = 18:10日立南IC = 18:20スーパ駐車場18:40 = 18:50自宅 d)同行者:和子、1号車同乗者41名
3.山行記録 朝食をとってスーパの駐車場に行くと、もう多くの同行者が集まっていた。やがてやって来たバスの指定された席に座るとすぐに出発、ガイドさんの話ではこの車は1号車で同乗者43名、ここには寄らないで先にいった2号車と合わせて合計の参加者は85名とのこと。このスーパには北茨城海側にも磯原や、高萩、日立、多賀と多くの店があり、この大甕店は一番南で2号車に振り分けられている。 バスは一旦海沿いのR245に出て久慈浜を南下して、内陸側のR6にある日立南ICから常磐高速に乗った。
大鳥居を潜ると太鼓の神橋があり、その向こうに楼門がでんと控えていた。
黄門さんの像を眺めながら楼門を潜ると、その先は唐門でその奥に社殿が見えている。社殿へのお参りが先かもしれないが、我家には千本鳥居の方が大事、楼門近くから正面左手に入って千本鳥居に向かった。
その先に六代将軍家宣公の胎盤が祀られている胞衣塚 があり、そこから先の鳥居は幅がさらに狭くなり、上から下ってくる人とは道を譲りあわなければならなかった。
その先に石鳥居の後に赤い鳥居が並んでおり、これも潜らないと1000本に達しないのかもしれないが、別物と考えて通り過ぎ、根津神社に向かう道に進んだ。後で調べると、この鳥居は駒込稲荷という別の神社のものだったので一安堵。
堀沿いの道を進むと堀の上に乙女稲荷が見えてきて、前のツツジの植え込みと後ろの森の木々の緑に真っ赤な欄干と社殿が映えてとても綺麗だった。
楼門から出ると、右手の斜面がツツジの植え込みで見事に埋められていた。入ってきた時にはこのツツジ苑には気が付かなかったが、花の時期にはさぞかし綺麗なことだろう。
本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
森鴎外の小説「青年」(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。・・・」とある。 旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説「青年」を読み、好んでこの坂をS坂と読んだ。したがってS坂の名は近く観測楼に住んだ森鴎外の命名である。 根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。 時間になってガイドさん先導でバスの待つ駐車場に歩いていった。
4階に上がって「大地の贈り物」の店内に入ると、真ん中に野菜が山盛りになったテーブルがあり、周りに寿司などいろいろ並んでいる。自然食ビュッフェが売り物で予約を取るのが難しいほどで殆どのテーブルが食事中のお客さんで埋まっていたが、毎日自家製の自然食を食べている我が家には余り有難味が感じられず、「なんだこんなもの。ガッカリだわ」言うのが和子のご感想だった。
公園入口の交差点に蔦の葉を着せられたパンダが二匹ならんでいて緑のパンダと呼ばれているとのこと。 上野公園の入口には「上野恩賜公園」と彫られた卵型の大きな石が置かれていた。恩賜とはおあま大袈裟なことだと思って調べたら、東京都観光公式サイトに次の記述があった。 この公園は明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。
ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地でした。それが明治維新後官有地となり、大正13年、宮内省を経て東京市に下賜されました。 当初は寛永寺社殿と霊廟、東照宮それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが建てられ、文化の香り高い公園へと衣替しました。
石段を登ると右に西郷どんの大きな銅像が立っている。身長3.7m胸囲2.5mもあるという。西郷どんの銅像は今でも人気者らしく、数人の若者が前に立っていろんなポーズで記念写真を撮るので、こちらの順番はなかなか回ってこない。今日はウッカリ身分証明書を持参しなかったので西洋美術館は割引が受けられないので癪、この顔つきならどう見ても高齢者だが、今日は他を回りましょう。
間から覗いて見たが、小雨が降っているパンダは屋根の下に入り込んでいる。人の姿ばかりがガラスに反射して、中の暗いところにいるパンダは良く見えない。がっがりして、めくらめっぽうシャッタを押した中に少しパンダらしい像が見えるものが一枚だけあった。
このサーラタイ(タイ風四阿)は、2007年9月26日に日タイ修好120周年を迎える両国の親密な関係の象徴として、タイ政府から贈呈されたものである。
その近くにインドゾウの園地があり、好物の竹の葉を食んでいた。
まだ時間にはゆとりがあるが、何しろ不案内な東京の事、集合場所に帰れることを確かめておこうと、不忍池沿いの広い遊歩道を公園出口の方に向かって歩いていった。
気分よく池の中ほどまで歩いていくと、円く膨らんだところがあって一休み、中央休憩所と仮称。 中央園地の周りだけ蓮の葉がなくて、湖面が光っていた。
日本最初の駅伝は、首都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が大正6(1917)年4月27日、28日、29日の三日間にわたり開催された。スタートは京都・三条大橋、ゴールはここ東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。
遊歩道をそのまま歩いていくと無事上野公園の入口に着くことができ、交差点の向こうに集合場所のABABビルが見えていて一安心。まだ集合時間まで1時間近くある。アメ横には用事がないので、貰った案内図を見て公園内でまだ見たことがないポイントを歩いてみることにした。
五條天神社は、東京都台東区の上野公園にある神社である。医薬祖神を主神とするが、天満宮でもある。また、稲荷神社である花園稲荷神社(が併設されているが、兼務社であって境内社ではない。
中ほどの道を歩いて引返すと、「時忘れじの塔」という時計台があった。前に立って空に手を挙げている女の子の肩に手を添え、小さな女の子を抱えたお母さんの像が時計の下に立っている像の上に時計があった。NETには 落語家の故・林家三平師匠未亡人、海老名香葉子さんが建立した東京大空襲を忘れないための平和の母子像の記念碑。平成16年に建立され、林家ご一門により慰霊の会が催されています。
「古事記」などによると、王仁(わに)博士は古墳時代前半に百済国から渡来し、「論語」・「「千字文」を伝えた学者であり、後に帰化したとされる。また、その子孫は文筆をもって朝廷に仕えたといわれる。
この「博士王仁碑」二基は、王仁博士顕影会により、昭和十五(1940)年及び昭和十六(1941)年に建立された。 平成25年3月 台東区教育委員会 その前に清水観音堂の参道だった。 寛永8年(1631年)に京都の清水寺に倣って建立されたお堂で、清水の舞台からは不忍池の蓮池が眺望できました。
公園出口が近くなって集合時間にゆとりがあったので、参道を通って本堂にお参りした。 前庭に人形供養碑の大きな石碑があり、石碑の下に次の文が彫られていた。 人形 それは人の心を明るく楽しく豊かにし 子どもを優しく美しく健やかにする。
左には次の説明板が立っていた。 清水観音堂に安置されている子育観音は子宝に恵まれない人々が信仰すると願いが叶うと言い伝えられています。そして子供が授かると丈夫に育つようにと人形を奉納します。その奉納された人形と家庭で飾ってよごれたり、子供と遊んでこわれたりした人形を秋の彼岸の終り(毎年9月25日)にここに集めて供養する行事(読経のうえ茶毘に付します)がある。
それらの人形を回向し供養するためにこの碑が建てられたのです。 清水観音堂
帰りも守谷SAと東海PAでトイレ休憩をし、筑波山は雲に隠れていたが日立南IC近くまで来た時に雨の中なのに風神山が出迎えてくれた。
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