G14.近所の神社仏閣

1.動 機 
 寒い午前中は外に出かけるのが億劫で、ウオーキングはいつも午後、それも町内を回る4000歩ほど。今日は風もなく暖かいので、久しぶりにロングウオークをしてみたくなった。とは言え、もし疲れて途中でやめたくなるかもしれないことを考えると、遠方まで往復するよりも我が家の近くを周遊する方がいい。グーグルの地図を眺めると、我が家を取り巻くように神社やお寺が散在している。これを見ながら「先ずは、北に1km歩いて@塙稲荷神社、国道6号を渡ってA吉田神社、南に下ってB日輪寺、C舟生川上神社、D明久稲荷神社、E大甕祖霊殿、F大甕神社古宮、国道を渡り返してG大甕倭文神社と歩いて、1km北上して我が家に帰ってくる。」というコースを考えて一人で出発した。ほとんど歩いたことのある寺社で、このHPにも記録しているが、C舟生川上神社とF大甕神社古宮は初めてのところだった。
(神社仏閣所在地と参拝順序)


2.データ
a)山域:日立市森山町、大みか町
b)登山日:2019/1/23(水)
c)日程:自宅13:10----13:35塙稲荷神社13:40----14:00吉田神社14:20----14:35日輪寺14:45----15:05舟生川上神社----15:25明久稲荷神社----15:25大甕神社祖霊殿15:30----15:45大甕神社本宮跡----16:00大甕神社儀式殿16:05----16:10大甕神社本殿16:15----16:25大甕神社拝殿16:30----16:55自宅

3.山行記録
 和子が車の定期点検で出かけている間に昼食を食べ、和子が帰ってくると入れ替わりに出かけ、歩いて行った。下の団地の庭に、夏みかんの黄色い実がたわわに実ってお日さまに当たって綺麗だった。
 地図を見ると、森山団地東側の線路沿いの道が終わる一つ前の角から住宅街に入れば塙稲荷が見えるはずだが、線路沿いの道はどこまでも続いてなかなか終わりが見えてこない。
(夏みかん満艦飾)
(長かった線路沿いの道)
 こんなに遠かったかなと思いながら歩いてやっと角が見えてきた。見覚えがある通りだが、脚力の衰えで距離間隔もずれてしまっている。
 近くまで来たが鳥居はなかなか見つからない。狭い道を歩いていくと狭い分かれ道の入口に「塙稲荷神社」の真新しい石柱が立っていて、その道の奥左側に鳥居が見えていた。石柱の裏には平成二十三年十二月建立と彫ってあった。
(終点近し)
(塙稲荷神社入口)
 鳥居の奥には、対の狛犬と灯篭に守られた塙稲荷の赤いお宮があった。鈴を鳴らしてお参りしたが、境内に由来などの看板はなかった。由来を知りたいとNETで調べたら、夫婦二人の山歩きのB13.日立市の自然・文化財(7)が出てきて、私も5年前にここにお参りしたことがあるようだ。
(塙稲荷神社)
 塙稲荷の入口に出て、次は国道6号を渡ったところの吉田神社、国道に出ようと狭い道を歩いて住宅街に道に出た。その道沿いにはまた夏みかんなど見ることができたが、国道近くの庭に咲いていたロウバイの花が満開で綺麗だった。門扉ぎりぎりまで入ったりして、いろいろな角度から何度もシャッタを押した。
(森山町の裏道)
(ロウバイ)
(ロウバイ)
 国道に出て横断歩道を渡り、あいまいな記憶でその前の道を入っていったが吉田神社は見つからない。通りかかった男性に聞くと、「国道沿いを南に一つ行くと、道の奥に鳥居が見えるよ」と教えられた。
 指示通りに国道沿いを歩いていくと、次の道の奥の森の下に鳥居が見えていた。
(国道6号)
(奥に吉田神社の鳥居)
 鳥居の近くまで歩くと、「村社吉田神社」の石柱や石灯篭の他にも色々目に付くものがいっぱい出てきた。
 場違いだが、左下に国土地理院の水準点があった。
(吉田神社一の鳥居)
(水準点)
 その脇に、上に「神習」の題名を浮き彫りにし、その下に「日立多賀郡坂上村森山吉田神社係桓武天皇延暦十四年−−−云々」と漢字だけの文を彫った大正二年十二月の石碑が立っていた。こんな長い漢文を読んでいては夜が明ける。
 奥拝殿の方には「敬紳」の題字の日本文の碑が立っていた。入口の碑は吉田神社の創建からの歴史を書いてあるようだったが、こちらはすぐに読むことはできたが、こちらは拝殿本殿の最新の改築の記念碑だった。
     当吉田神社ハ延暦十四年ノ創立二シテ祭紳ハ日本武尊 誉田別命 御神体ハ神鏡ナリ 永承七年源頼義ガ北征ノ途武運ヲ祈リ為ニ大勝ヲ博シタリト伝ウ
     爾来森山部落民ノ守護神トシテ氏子ノ繁栄農産豊穣ノ神思ヲ垂レテ現在ニ至ル 其ノ間社殿ノ改築ハ十数度ニ亘リテ行ナワレシト思ハレルモ前回ハ明治四十一年ノ春ニテ既ニ六十年ヲ経 拝殿ノ腐朽甚ダシク荒廃其ノ極ニ達シ神社々殿トシテ視ルニ忍ビズ 御神霊ニ対シ恐?ノ至リヲ堪エズ 依テ三年前ヨリ改築の議起リ本年ノ春氏子ノ大総会ヲ開キ審議ノ結果待望ノ拝殿改築ノ議纏マル 氏子総代ノ外建設委員ヲ選出シ之ニ依リテ六月中旬ヨリ寄付募集ヲ始メ八月初旬起工仝月二十四日拝殿の上棟トナリ九月中ニ完成ス 最初百万円ノ目標ナリシガ氏子ノ敬紳ノ発露ト徳志者ノ協力ニ依リ総計百六十余万円の寄進ヲ得其レ故ニ初メ拝殿ノミノ改築ナリシモ本殿及ビ端垣ノ修理愛宕神社ノ修復ニ迄及ビ十月中ニ完了ス 更ニ石段ノ修繕参道ノ舗装整備モ十一月中ニ完成シ神社トシテノ尊厳面目モ一新ス
     依テ十二月十七日ヲ佳日トシ氏子並ニ関係者一同相会シ盛大ナル竣工ノ式典ヲ挙行ス 茲ニ大要ヲ記シ以テ後世ニ残ス
       国務大臣 塚原俊郎 題額 
               昭和四十二年十二月吉日建立
(昔の紳習脾)
(新しい敬紳脾)
 拝殿は何回か石段を登ったところに、狛犬さんと石灯篭に守られて建っていたが、極めて地味な風情だった。
(吉田時神社拝殿)
 拝殿の後ろの本殿も、いろいろ凝った彫り物で飾られているが、改築50年で地味な色合いになっていた。
(右から奥の院)
(右から奥の院)
 境内には地味な本殿、拝殿の割りに、境内には樹齢何百年と思われる大樹が茂り、数多くの摂社・末社が建っていた。
(天満神宮・鷺 神社・阿夫利神社・愛宕神社・稲荷神社)
(八坂神社)
(諏訪神社)
(富士神社)
 棟札とは、建物の建立や修復工事の名目、時期、願主や施工人の名前などを書いた札のことで、室町時代からのものが残っており、江戸時代までの棟札27枚が日立市の指定歴史資料にしていされているとのこと。
(愛宕神社)
(吉田神社胸札説明版)
 吉田神社を出て、次の日輪寺に向かう。国道まで出なくても行けるというおぼろげな記憶を頼りにわき道を歩いていくと、木立越えに豪華な入母屋造りの屋根が見えてきて、ここだったかと思って喜んだが、前まで行くといずれも普通の民家と分かりがっかり。
(門付き豪邸)
(入母屋造二階建て豪邸)
 思い直して歩いていくと広い墓地が見えてきて、墓越しにお寺らしき屋根が見えてきた。今度は大丈夫と、広い墓地の中の道を歩いていく。
(墓地の向こうに屋根)
(広い墓地通過)
 最短距離で日輪寺の境内に入って本堂を拝む間に、お花を抱いたご婦人連れが本堂にお参りして墓地に向かわれた。
(日輪寺本堂)
 本堂の横に客殿があり、’15年10月にここで座禅を体験したことがあるのだが、この時の記録C102は、うっかり他の記録を上書きしてしまって今は見ることができない。
 境内にはいろいろな像が並んでいるが、名が売れているのは家守不動瓦。屋根型の台座に乗せられた大きな鬼瓦で、次の説明文が付いている。
     平成二十三年三月十一日の東日本大震災で、日輪寺客殿の瓦がことごとく崩れ落ちる中、この鬼瓦だけは、ひとり屋上にあって泰然として動かず、乾をにらみながら、伽藍本体を守った。
     家守不動瓦と命名して奇瑞を後世に伝え、広く参詣の人々に家内安全・厄災消除・入試合格の利益がおよぶことを念じて、ここに謹んで奉祀する。
      平成二十四年新春 来迎山宝珠院 日輪寺
(客殿)
(家守不動瓦)
 救世観音像などの仏像や、四国四国八十八箇所御遍路を歩かれた弘法大師像も立っている。
(救世観音像)
(弘法大師脾)
 国道側の表門方向には「南無大師遍照金剛」のたくさんの寄進旗がはためいていた。
 表門の横には「水子をまもるお地蔵さま」の石柱が立ち、水子地蔵が祀られ、数多くの卒塔婆が立てかけてあった。
(表門) 
(水子地蔵)
 国道に出て南下、次は地図上の舟生川上神社を目当てに森山浄水場の敷地に入っていくと、門扉の向こうに鳥居が見えてきた。ここからは行けないかと半分諦めて、試しに扉に手をかけてみると、なんとガラガラと開いてくれた。
 鳥居の前まで歩くと、真っ直ぐ奥に小さなお宮が立っていた。
(門扉の向こうに鳥居)
(鳥居の奥にお宮)
 鳥居をくぐると、左に「ここに水神ありて 日立市うるおい とわにさかえん」と彫られた石碑があり、その奥の木の板には「ここに水神あり 水は五穀をはじめ 太陽と共に 万物の根源となす」と彫られていた。
(石碑)
(木板脾)
 舟生川上神社の祠は小さな池の真ん中に祀られていて、コンクリートの橋と石段が付いていた。日立市企業局のHPによれば、平成2年 森山浄水場管理棟本館工事竣工 とあるので、この舟生川上神社が造営されたのはこの時あたりかと思ったが、後で日立水道局のHPに問い合わせると、担当の方から「神社名は、丹生川上(ニウカワカミ)神社の御分霊です。森山浄水場が今後、渇水等による水不足に困らないように昭和42年に森山浄水場の通水を記念し「分霊奉戴」いたしました。」と丁寧なご返事を頂いた。
 神社にお参りして門扉を開けて外に出た時、門扉に「水道施設につき関係者以外の立ち入りは禁止です」とのお願い版が取り付けてあるのに気が付きました。申し訳ありませんでしたが、舟生川上神社の周り一帯は水道施設ではなさそうなので、もう少し入場可能領域を広げていただきたい。
(池の上の舟生川上神社)
 国道近くに出て団地外れの道を歩いて突当りまで行くと、国道への出口に久慈浜稲荷神社が建っていた。小さなお宮だが、鳥居の前には門松が供えられ、祠の前には対の石灯篭と狛犬も立っている。
(久慈浜(明久)稲荷神社)
 鳥居の脇に「明久稲荷神社」の碑が立っていた。謂れも彫ってあったのかもしれないが、今は朽ちてしまって読むことができない。調べると
    かつては行戸町にあり、明治41年頃は明久稲荷といわれていたが、古墳の傍らに祀られていた為に塚の稲荷とよばれ信仰されていた。昭和32年改めて京都伏見稲荷大社より御霊を頂き遷座し、昭和60年に移転(理由不詳)を余儀なくされたが、崇拝者の願いにより大甕神社境内国道六号線北側(祖霊殿参道入口前広場)に移祀された
 祠の前の狛犬さんは狐のような姿をしていて何か愛らしい。塙稲荷の狛犬もこんな形だった。その脇に「石鳥居建立記念碑」の石碑が立っていた。
(明久稲荷神社碑)
(石鳥居建立記念碑と狛犬)
 久慈浜稲荷神社の前から国道に沿って祖霊殿の参道が上がっている。鳥居の先に石灯篭の列が続いて神々しい雰囲気を醸し出している。
 長い参道を歩いていくと、右の大きく立派な石柱の奥に祖霊殿が建っている。
(祖霊殿参道)
(祖霊殿)
 今日は入口が閉まっているが、ガラス越しに覗くと、広い畳敷きの広間にたくさんの椅子が並べてあって、奥に注連縄を張った祭壇が見えた。
(祖霊殿の中)
 次の大甕神社古宮は、グーグル地図によると日研クラブの奥になっている。日研クラブでは、日立に入社当初何度か会合に参加したことがあるが、近くにお宮があるとは知らなかった。
 日研クラブの前まで入ってみると道はやはり行き止まりだったが、前庭の隅に斜面を登っている踏み跡が見つかった。
(日研クラブ)
(庭の隅に登り坂)
 急坂を登って踏み跡をたどると「古宮」の石碑が立っていて、下の漢文の説明文が付いていた。これから左の大甕神社HPの由緒が書かれたと思われる。ここは「古宮」ではなく「古宮跡」だったらしい
 石碑の前から先にも踏み跡が続いていたので、終わりまで歩いて行ってみると、そこには小さな祠があったが、これは古宮とは関係なかったかな。
 古宮
此地大甕倭文神社本地也傳云倭文
郷大甕山上陵墓有神代昔建葉槌命
蒙天神勅命甕星香〃背男誅後此地
鎮座倭文布織天孫捧給因茲御名倭
文神號神退及山中葬奉陵墓則是也
東山天皇元録八年西山義公今之地
御曳修造建立遷宮 神職 宮田 實 撰文
元禄8年(1695年)まで本殿が鎮座しておりましたが、水戸藩主徳川光圀の命により現在の宿魂石の頂上に遷座されました。
大甕神社の由来は、
祭神、武葉槌命。
造営が最初に為された年代は不詳。
1689年、水戸藩により大甕山上より現在の地、宿魂石上に遷宮。
大甕倭文神宮という神宮の号を用いる。
1695年、水戸藩により、社殿が造営される。
1751年、修復工事。
1933年、現在の拝殿が造営される。
1957年、現在の本殿が造営される。
(大甕神社古宮跡脾)
(小さな祠)
 急坂の踏み跡を下るのは嫌なので、すぐ前の河合造園の敷地を通らせてもらって国道まで下って行った。途中、和子から「大丈夫?なかなか帰ってこないけど!」と電話が入り、「これから大甕神社にお参りしてから帰ります」と返事した。横断歩道を渡ったところに道祖神の像があった。安曇野で道祖神めぐりをして歩いた記憶がある。
 そこからは大甕神社の大鳥居が大きく見えていた。大鳥居の扁額には「大甕倭文神」となっているが、入口の石柱には「大甕倭文神」となっている。
(道祖神)
(大甕倭文神宮)
 大鳥居から境内に入ったところにある儀式殿はいつ見ても堂々とした構えである。
(豪華な儀式殿)
 儀式殿の左は小さな山になっていて、その裾に悪神を祀った甕星香々背男社が建っている。悪神を祀ったにしては、石製と木製の対の灯篭に十段以上の立派な石段付き、屋根には千木、鰹木や星もマークが付いた立派な社殿だ。
 甕星香々背男社の石段を登ると、右に踏み跡のような坂道が分かれている。
(甕星香々背男社)
(右に登り路)
 土の道を登って一曲がりすると石を敷き詰めた坂道になった。
 石畳の道を登って一曲がりすると山頂に向かって岩の急坂があり、その上にお宮が見えた。
(途中から石ころ道)
(てっぺんに本殿)
 これが大甕神社の本殿だった。
(本殿)
 屋根下や壁、縁側の凝った彫り物を眺めながら本殿の周りを一回りした。
 本殿前から岩道を下りると分かれがあり、分かれを少し下ると下に鎖場が二か所続く急坂、ここを何度か登ったことを思い出し、危うきに近寄らずと登ってきた道を儀式殿前まで下っていった。
(本殿の彫り物)
(拝殿側への下りは鎖場連続)
 境内に降りて先に進むと鳥居を持った天満神社があり、
 その先の地味な社は御神輿殿、ガラス戸から覗くと金ぴかの神輿が収まっていた。この神輿は八角形で、6年に一度の例大祭で久慈浜まで繰り出し、大勢の氏子の行列に担がれて久慈浜町内を廻り、漁港ではこの御神輿と太鼓を船に乗せ、大漁旗をなびかた漁船団が沖の御神根磯まで漕ぎ出す海上渡御も行われます。わたしも一度見に行ったことがあります。
(天満神社)
(八角神輿)
 この他にも八坂神社や稲荷神社など境内社が多い。
(八坂神社)
(稲荷神社)
 山側には境内社大杉神社と細い階段道があり、御本殿参道の標識が立っていた。ここを登っていくとあの鎖場を登ることになる。
 その左に「宿魂石」と彫った岩がある。「宿魂石」とはこの岩山全体のことで、この岩山の山頂の御本殿に祀られている武葉槌命が悪神甕星香々背男の魂を抑え込んでいるとのこと。
(御本殿参道・大杉神社)
(宿魂石)
 そして拝殿。前庭に大きな怖い顔をした狛犬さんと立派な石灯篭が対で立って守っている。大きく立派な社殿には多くの彫り物が施されており、屋根の棟や鬼瓦に本殿と同じ三つ巴のマークがついている。石段を上がった祈祷所には鈴が3本もぶら下がり、両側には多数の献燈が飾られていて、参拝者の多さを思わせていた。
(大甕倭文神社拝殿)
 拝殿脇の旧社務所前に、大甕神社境内図が立てかけてあった。大甕神社の広い境内の配置は一目瞭然、これを見ていれば、今まで古宮を見落とすことはなかっただろう。
(大甕神社境内図)
 大甕神社を出て、和子に「これから帰るよ」と電話を入れて歩き始めた。目の前に「泉川道標」の標柱が立ち、後ろに「従是泉川道」の石碑が立っていたのでシャッタを押しておいた。
    泉川道標復元の記
    泉の水の流れ去るように人の世も しばしの休みとてなく移り変わつて行く
    遥かなるみちのくに通ずるこゝ陸前浜街道も かつての岩城海道の昔の面影今は知るよしもなく 昨日の閑かでおおらかな旅人の姿は今日疾風の如く往き来する近代車輛の轟音に代つている
    二百年の風雪に堪え時の去来を静かに見守つていた泉川道標も近代交通の波にうちひしがれ 一時は日立製作所厚生園内に退避を余儀なくされていたものであるが 苔むしたこの小さな道標の 日本交通史上に占める意義を考えるとき 群叢中に是をあたら散逸させるに忍びず ここに元の位置に復し再建するものである。
      昭和三十八年三月八日
      日立市大久保町 大窪定一
      日立市森山町  丹 規矩
      日立市水木町  河村佐内
 我が家に帰り着いたのは、17時直前、歩き始めた13時10分から4時間近く経っており、前のアパートの外灯が点灯していた。スマホの歩数計は「14989歩」を指しているが、足腰に痛いところはない。これなら山にも登れるかなと、目の前に見える風神山を眺めながら思ったのでした。
(泉川道標:従之泉川道)
(我が家から風神山)
 ところが、5日ほど経った時足腰に急に痛みが出始めて、出歩くのも億劫になってきた。齢を取ると身体を使った後の影響がすぐには出なくなる。それにしても5日後とは、私の体はもう百歳ぐらいになっているのかも。


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