H34.諏訪梅林 1.動 機
自宅12:40ー12:50スーパ多賀店13:10ー13:15諏訪梅林13:45ー14:00自宅午後から日立のスーパまで買い物に行った帰り、思い立って諏訪梅林に行ってみることになった。予想通り梅の盛りは過ぎていたが、久しぶりの公園散歩に満足して帰ってきた。昔の事ばかり書いてきたので、久しぶり現在の夫婦二人のお散歩写真を載せます。カメラを持参せず慣れないスマホで撮った写真です。2年前にこの諏訪梅林で教わった花写真の撮り方を生かせなかった。 F31で写真の撮り方を教わったことはすっかり忘れていて、今回のブログを書くに当たって、諏訪梅林の記録を見直していて偶然見つけ出したこと。カメラを持っていてもスマホ以上の写真は撮れなかっただろう。史跡についても6年前にB32で詳しい情報を書いているのも記憶にはなかった。 2.データ a)山域:日立市諏訪町 b)登山日:2020/03/13(金) c)旅程: 3.山行記録 スーパでの買い物が終わって、「今年どこにも梅見物に出かけなかったので、近くの諏訪梅林に行ってみよう」と言うことになった。諏訪梅林の県道沿いにある駐車場所に車を入れて、脇を見ると長い屋根に守られた古びた石碑が並んでいた。脇に立っている由来書も同じ写真に写っているが、拡大するとぼやけて読み切れない。 NETで諏訪梅林の慰霊塔の由来書を検索していたら、自分のHPが引っ掛かった。引っ掛かった”B32.日立の魅力再発見ウオーク(諏訪)”を開いてみると、この馬頭観音の由来書も出てきた。 梅園の駐車場脇には一体の馬頭観世音と八体の石塔が並んでいて、脇に由来書があった。
諏訪梅林の橋のたもとに静かにたたずむ石仏は三面六臂の馬頭観世音さまで、日立地方では数少ない。 この尊像は私たちに病気災難の厄除け、一生を幸福に過ごさせてくれる観世音様である。時をこえて昔の里人の心が素朴に伝わってくる。 像の制作は諏訪梅林の造成に先立つこと七十七年前宝暦十二年(一七二六)である。 平成二十年八月 諏訪文化財愛護班・諏訪壮青年梅友会
お年寄りの烈公手植の梅は、まだ枯れてはいなかったが、今年も花はつけなかったようだ。
慰霊塔
太平洋に臨み多賀山地を背にして鮎川の雨岸に成沢油縄子諏訪の大字三部落があつた これが我等の郷土旧鮎川村である 村の中央に鮎川小学校がありその一隅に忠魂碑があつた その碑は旧鮎川村出身の戦没者の霊を慰めるため大正年間建立されたものである 然るにその碑は昭和二十年八月終戦直後の混乱の中で姿を消したのである 爾来二十余年多賀町の一部となっていた鮎川地区はその後日立市と合併し今や発展の中心となりその様相は年と共に変貌しつつある 此の時にあたつて旧鮎川村の有志相計り昨年八月戦没者顕彰会を結成し新たに慰霊塔を建立することを決議した それは多くの人の心に迎えられ多額の浄財もまた寄せられた 事業は順調に進み明治百年の今年茲に荘厳な慰霊塔の建立をみるに至ったのである 此の地区に生を享けた多数の住民に代わり西南の役をはじめ日清日露の兩役満州日華等の各事変太平洋戦争と幾多の戦役に従軍し或いは又戦災にあうなどして尊い一命を捧げた戦没者は一八〇名に達している これらの犠牲者又その遺族の事に思いを馳せる時この地に安住する者は平和な郷土に波乱を呼んだその折々の厳しい現実を慈起すると共に戦没者の霊に敬虔な祈りを捧げないではいられない 今や世界の平和を願う声は愈強く身命を捧げた犠牲者の悲願であつた永遠の平和は人類共通の課題となつている 風光明媚な故山を後に再び帰ることのなかつた戦没者の霊を慰めその悲願を察することは祖国の再建を願う者の努めでなければならない 戦没者の誰もが生前訪れたであろう由緒深いここ諏訪梅林の傍らにこの慰霊塔が建立された事を機会に戦没者の悲願が人々の胸に甦えるならばその霊も亦安らかであろう 茲に慰霊塔建立の意義を明察しその由来を記して碑文とする 昭和四十三年三月二十日 茨城大学教授 瀬谷義彦 撰文 日立市旧鮎川村地区戦没者顕彰会々長 瀬谷秀俊 謹書
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