H122.2000年初夏の茨城山歩き

1.動 機 
 会社を1999年退職してからは、海外旅行や国内ドライブなど満喫、その間にも近くの山に「夫婦二人の山歩き」をしていた。2000年の4月から5月の「H95.茨城の春の山と野の花」に続いての6月から7月中旬の5件の山歩きを報告します。

2.データ
a)山域:足尾山、加波山、難台山、上杉神社、山形サクランボ園、雄国沼、神峰山
b)登山日:2000年6月5日〜7月18日
c)行程:6月5日:筑波連山縦走の道、6月7日:難台山とフラワーパーク、6月21日:山形県日帰りバス旅行、7月1日:裏磐梯フラワーハイキング、7月18日:神峰山ハイキング

3.山行記録
6月5日 筑波連山縦走の道の一部
 日立9:40発車=一本杉峠〜足尾山〜足尾神社〜パラグライダー発進場〜きのこ山〜つぼろ台〜一本杉峠=加波山登山口〜加波山〜燕山〜加波山登山口=18:15日立

 高速道で笠間西ICまで走って石岡の街から林道に入り、くねくねと一本杉峠まで上った。峠には「関東ふれあいの道」の案内板が立っていて、今回のコースを確認した。
(関東ふれあいの道:筑波連山縦走の道(1))
 稜線には立派な林道が伸びていて、てくてく歩いていくと足尾山への分岐あり、すぐに足尾山の山頂小広場に登りついた。小さいが格好のいい祠があって記念写真。
 山頂を下ると足尾神社があったので、この祠も足尾神社なのかも。
(足尾山頂の祠)
(足尾神社拝殿)
 足尾山の山頂からは展望がよく、展望写真も残っている。霞んでいた山々は写っていないが、筑波山や日光連山が見えていたはずです。
(足尾山山頂)
 足尾神社にお参りして尾根道に出てすこし進むとパラグライダーの発進場があり、飛び出していったパラグライダーは気持ちよさそうに見えた。順番を待ちながら準備をしている人も数人いた。
(パラグライダー発進場から)
 そのまま尾根道を進んできのこ山に到着。珍しいきのこ山についての解説版が立っていた。
    この山は、昔から誰いうともなく「きのこ山」と呼ばれており、地ぶくれ状の山頂一帯はブナナラの落葉樹が多く、きのこの生育環境に適しています。
     食用きのこの種類も多く、千本シメジ、一本シメジ、大国シメジ、カキシメズなど9月下旬から11月上旬にかけて採取することができます。  環境庁・茨城県
(きのこ山))
 主尾根の道から別れて、脇の尾根道を下っていって少し登り返すと、大岩が転がるつぼろ台があった。岩の上に立つと展望が良かった。
(つぼろ台)
 つぼろ台から加波山などを眺めたりしながら一本杉峠まで引き返した。
(加波山)
 一本杉峠から反対側の尾根に続く道を歩いていくと、変わった形をした「自由の」の大きな石碑が立っていた。石碑の脇には、茨城県知事だった岩上二郎の謹書の碑が並んでいた。岩上二郎は若い頃自由民権運動にも参加していたらしい。
      自由の
     加波山は古代から伝謂の多い信仰の霊山である。また自由民権発祥の地としても誇り高い歴史を刻んでいる。
     ここに改めて真の自由とは何かを心に問うよすがになれば幸いである。
      昭和五十七年四月二十九日
      参議院議員 岩上二郎 謹書

    加波山事件とは、自由民権運動の一つで、明治17年県令三島通庸らの暗殺を計画していた栃木・茨城・福島の自由党員急進派16名が、9月に茨城県加波山を拠点に蜂起したが、間もなく鎮圧された事件。富松正安ら7名が死刑に処された。
(自由の・自由民権運動記念碑)
 その先には加波山神社の石段、鳥居があり、その奥に豪華な中宮拝殿が見えていた。、
    加波山神社は、第十二代景行天皇の御代(約二千年前)日本武尊の御東征(現在の東北地方を平定)に当たり、加波山に登り、三神(天御中主神・日の神・月の神)を祭り、社を建て加波山天中宮が創建されたと伝えられています。 延暦20年(西暦800年)に征夷大将軍、坂上田村麿の御東征に際しても当社に戦勝を祈願され、大同元年(西暦806年)に社殿を寄進されました。
 中宮拝殿と新宮拝殿の間に加波山への登山道があった。
(加波山神社入口)
(加波山山頂・本殿への登り)
 登り詰めた山頂には加波山神社の御本殿が立っていた。その前には「自由の」の碑があった。下に大きな「自由の」があったが、こっちの方が元祖の碑でしょう。
 加波山神社本殿の近くにはたばこ神社という変わった名前の祠があった。
    往昔東茨城郡内原町(現水戸市内原町)の煙草生産者が雹害のために大損害を被り、以後の除災祈願のために加波山へ登拝し、等身大の煙管を奉納したのが起源で、その後たばこ神社を創祀して斎行するようになったと伝える。

(加波山神社本殿)
(たばこ神社)
(加波山神社前の自由のの碑)

6月7日 難台山とフラワーパーク
 日立9:50=11:15道祖神峠11:20〜12:20難台山12:45〜13:40道祖神峠=八郷町=15:00フラワーパーク16:10=17:30日立

 先日歩いた足尾山-加波山の連山に対峙して東に吾国山-難台山の連山がある。今回は、この吾国山-難台山の間にある道祖神峠から、両方の山にピストン登山を登ることにした。道祖神峠の標高は310mあり、標高553mの難台山まで標高差243m片道2km、標高518mの吾国山には標高差208m片道1kmの軽いハイキング。のはずだった。
(道祖神峠から出発)
 難台山へは急登が何度かあり短距離でも結構きつかったが、途中、ヤマボウシの木が満開の白い花をいっぱいつけていて、疲れを癒してくれた。
(満開のヤマボウシ)
 汗かきながら登りついた山頂は広場になっていて、「難台山頂」の山頂標や、地図が掘り込まれたコースガイド盤などがあった。
(難台山山頂)
 難台山から道祖神峠への下り道で、和子が急坂の下りで、這い出してきた大嫌いな蛇に驚いて足を滑らせて転倒、左手腕を捻挫した。痛みに耐えながら峠まで頑張り、吾国山は止めにして、八郷町(現在石岡市に併合)の薬局で湿布薬を買って対策。後で医者に見せて骨折していることが判った。
 方手を首から吊った形で、石岡市のフラワーパークに入って昼食をとり、バラのテラスや庭園風バラ園で満開のバラの花を満喫した。
(フラワーパーク)
 フラワーパークからは筑波山も綺麗に見えていた。。
(フラワーパークからの筑波山)

6月21日 山形県日帰りバス旅行
 自宅6:10〜6:20大甕駅前6:30=多賀駅・日立駅・小木津駅・高萩駅=高萩IC=湯の岳SA=いわきJCT=郡山JCT=安達太良SA=飯坂IC=栗子峠=米沢=高畑ワイナリ=上杉神社=13:20米沢牛しゃぶしゃぶ14:00=14:20南陽市サクランボ園15:00=飯坂IC=郡山JCT=いわきJCT=高萩IC=20:00シオン学園前

 久しぶりに外出したくなり、ツアー会社計画の山形への日帰りバス旅行に参加した。
 我家近くの大甕駅から始まり、日立駅-小木津駅-高萩駅で参加者が乗り込んできて、参加者45名の満車状態でバス旅行のスタート。高萩ICから福島飯坂ICまで高速道を走り、国道13号で栗子峠を越えて米沢市隣の高畑町にある高畑ワイナリーに到着した。
     当ワイナリーは1990年、全国でも屈指のぶどう産地である高畠町に創設されました。
     我々のミッションは、たとえ100年かけても世界の銘醸地に並ぶ「プレミアムワイナリー」となることです。そのために私たちは「高畠ワイナリー100年構想」という高い目標を掲げました。
     高畠ワイナリーショップでは、高畠ワインはもちろんのこと、地酒や地ビール、リキュール、焼酎などの他アルコールも取り扱っています。ここでしか買えない限定ラベルのワインやショップオリジナルのワインもございますので、ご来店の際には是非ワインコーナーにお立ち寄りください。通年、4〜6種類ほどのワインの試飲もご用意しておりますので、一口お試しいただいてからお好みのワインを選んでいただく事も出来ます。
(山形 高畑ワイナリー SINCE 1990)
 45名の参加者全員ワイン製造工程の見学をして、ショップで何種類ものワインの試飲を楽しんだ。我家も1本ワインを購入したが、お店はこれで試飲代を取り返すことができたのでしょうか。
(ワイン試飲)
 次は米沢市の市街中心の松が峰公園の米沢城址の中に建つ上杉神社に参拝した。
     明治9年、上杉謙信、上杉鷹山を祭神として、米沢城本丸跡に建立。
     明治35年に別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ=明治政府が定めた神社の位置づけ、分類を表す。国に尽力した人物を祀る神社)に指定され、このとき祭神は謙信のみとなり、鷹山は摂社に祀られ松岬神社となる。
     大正8年に起こった米沢大火で類焼、ほとんどの建物が焼け落ちてしまったが、その後国からの援助金や米沢市民の労働奉仕などにより、大正12年、現在の神社が完成。設計は米沢出身で、神社建築の第一人者伊東忠太博士。
(上杉神社の大鳥居)
(上杉神社神門)
(上杉神社拝殿)
 神社の後ろの方には、上杉神社に祀られていた上杉謙信ならぬ上杉虜山という人物の像が二体祀られていた。
     園内にある松岬神社の鳥居の横には、上杉9代目藩主で江戸時代屈指の名君といわれる上杉鷹山公の銅像があります。上杉鷹山公といえば、「成せば成る 成さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」という言葉があまりにも有名ですね。
     上杉鷹山は17歳で家督を継いだのですが、その藩の財政は火の車。その後、困窮した藩を見事に立て直しました。藩士たちだけではなく、自らも率先して節約につとめるなど支出を減らすだけではなく、農業開発を積極的に行うなどの収入を増やす改革も断行しました。藩の再建のために家臣だけではなく、広く領民からも意見を求めながら改革を進める姿は、庶民からも慕われたのです。現代でも多くの人々、特に企業経営者などが尊敬する人として挙げる偉人です。
(上杉虜山公之像@)
(上杉虜山公之像A)
 松が峰公園を出て米沢牛のしゃぶしゃぶ料理の昼食を頂いてから、次は南陽市の山形名産のサクランボを生産する果樹園に入った。
(山形県サクランボ園)
 果樹園内には真っ赤に熟れたサクランボが鈴なり、これが食べ放題! 牛肉のしゃぶしゃぶでお腹は結構いっぱいだったが、甘いサクランボは別腹、美味しそうなのを選びながらいっぱい頂戴した。
(サクランボ)
 帰りもバスは福島飯坂ICから高速に乗って往路と同じコースを走ったが、帰りは我が家に近いバス停で止まってくれたので助かった。

7月2日 裏磐梯フラワーハイキング
 今回のハイキングで同行したSさんは、日立同期入社の山仲間で何時もリーダ格を務めてくれていた。Sさん夫妻と我家がそれぞれ車で出てきて、2台の車を別々の登山口に停めておいて、登りと下りを異なるコースを歩くことができた。
自宅5:30=日立北IC=湯の岳PA6:20=猪苗代IC=裏磐梯雄子沢(川本車P)=八方台(下山車P)〜猫魔ヶ岳〜雄国沼〜雄子沢15:15=八方台15:30=ゴールドライン=川東=猪苗代IC=日立北IC=自宅
 
 早起きして、我が家を5時30分に出発、日立北ICから常磐道に乗って湯の岳PAでS車と合流して6時20分再出発、いわきJCTで磐越自動車道に分かれて西走して猪苗代磐梯高原ICで高速を下り、国道115と459で裏磐梯を走って雄子沢に川本車を置き、川本夫婦はS車に同乗して国道459を少しバックして磐梯山西麓のゴールドラインに入って八方台登山口に到着した。
(磐梯山・猫魔ヶ岳登山ルート案内板前)
(歩行コース)
 八方台登山口から磐梯山とは反対方向に歩き始め、猫魔ヶ岳を越えて猫石で一休み。雄国沼全体がよく見えていて、左上辺りの湿原が黄色く見えていて、これがニッコウキスゲか!と期待させた。
 反対側には磐梯山。右の猪苗代湖側はなだらかに山容だが、左の裏磐梯側はガタガタの山容で火山爆発の跡をうかがわせている。
(猫石からの雄国沼)
(磐梯山)
 猫石から雄国沼湖畔に下って雄子沢を渡って雄国沼の北岸まで歩くと、ニッコウキスゲ群生地が段々とはっきりと見えてきて、群生地の中の遊歩道を歩くハイカーの姿がありの列のように見えてきた。
(雄国沼ニッコウキスゲ群生地:全景、手前に遊歩道)
 群生地の入口まで来ると、ハイカーの姿がはっきりと見えてきた。
(雄国沼ニッコウキスゲ群生地:遊歩道接近)
 我々もハイカーの仲間入り。
(ニッコウキスゲ群生地遊歩道)
(ニッコウキスゲ群生地遊歩道)
(ニッコウキスゲ群生地遊歩道)
 狭い散策路を歩いて行くと、途中から広い舗装道路になり、杉林の中をゆっくり下って駐車場まで歩いた。
(雄国沼ニッコウキスゲ群生地パノラマ)
 雄国沼湿原には、ニッコウキスゲだけでなく、ヒオウギアヤメや
(ヒオウギアヤメ)
 ウラジロヨウラク、ハコネウツギなど可愛い花も咲いていた。水中花のように見えるが、どんな撮影方法で撮ったのでしょう。
(ウラジロヨウラク)
(ハコネウツギ)

 あとは雄子沢沿いを駐車場まで下って、川本車に4人乗って八方台登山口迄走って散会になった。Sさんに引っ張られて快適に歩いたが、この日の歩数の合計は23888歩だった。

7月18日 神峰山ハイキング
 自宅9:30=10:20神峰公園口P〜鞍掛山〜11:30切り通し〜12:20蛇塚〜小木津山分岐〜12:55羽黒山(昼食)13:25〜13:55石尊山分岐〜14:20神峰山神社〜15:15石灰山社宅跡〜15:42石灰山口BS=15:50楓平BS〜16:00神峰公園口P

 7月初めは孫のお世話、大学講義などいろいろ立て込んで山歩きが入る余地がなかったが、18日久しぶりに神峰公園から神峰山迄歩くことにした。
 神峰公園入口の駐車場に車を入れて、鞍掛山に登って歩いていくと、登山道の脇には榊の木が多く見られるようになり、両脇に榊の木だけが立ち並んでトンネル状態になっているところは素晴らしい眺め。この榊は大煙突を建設した久原房の助が煙害に強い植物として植栽したのだと聞いたことがある。cc.W31.日立アルプス縦走
(鞍掛山)
(榊のトンネル)
 その先に「蛇塚」という言い伝えのある石があった。石碑の表面には写真では判らないが、浅く蛇塚と彫られていたらしい。
    むかし、戦国時代以前は、このあたりは山深く、大蛇が棲んでおりました。
    大蛇は、しばしば、山仕事や草刈りのに仕事に来た村人の前に姿をあらわしては危害を加えたので、村人たちは怖がって近付かなくなりました。
    この話を聞いた宮田の水庭若狭守という武士が、村人のために大蛇退治に向かいました。
    水庭片狭守は、弓の達人で、見事、恐ろしい大蛇を大弓で射止めたのです。
    村人たちは、「これで、もう安心だ。以前のように山に入れる。」と喜びました。
    そのうち、誰言うと無く、「さんざんひどい目に遭った大蛇だが、後々たたりがあっても困る。供養してやろう。」と言うことになりました。
    村人たちは、大蛇の死骸をねんごろに埋葬して、供養の石碑を建てたのだそうです。
 神峰山山頂まで登ると「日立大煙突の記念碑」が設置されていた。碑文にある大煙突倒壊の瞬間を、私はたまたま職場の窓から目の当たりに見て目を疑った思い出がある。
    大正4年3月太平洋の大海原を眺望する多賀山地に155.7メートル当時世界一の大煙突が完成した。日立鉱山の創業者・久原房之助は深刻化する煙害問題の抜本解決を期し 延べ3万7千の人員と鉱山・製錬所起業費の一割強に当たる15万2千余円の巨費を投じた。建設の根底には地域社会との共存共栄を希う起業家精神と克己をもって事に処す諸先達の苦心惨憺があった。
    爾来 屹立する大煙突は日立の街づくりに一紀元を画し 世界にはばたく工業都市・日立のシンボルとされた。朝に夕にこれを目のあたりにすること七十幾星霜多くの市民の心のふるさととなった。
    平成5年2月19日 大煙突が倒壊した 深い寂寥感の中にも市民の寄せる惜別と愛着の念は限りない。一企業の範疇を超え常に街の方々の心とともに歩んだ大煙突、その軌跡は永遠に語り継がれるであろう
     郷土の皆様の長年の御厚志に心から感謝の意を表するとともに 環境保護を念じた諸先輩の不屈の精神と行動を後世に伝えるべくここ神峰山頂にありし日の大煙突の雄姿を刻して記念碑を設立する。
       平成6年9月 株式会社ジャパンエナジー日鉱金属株式会社
(蛇塚)
(神峰山山頂の大煙突記念碑)
 下りは山道を歩くのはやめにして、神峰山麓の石灰山社宅跡迄下って、バスに乗って神峰公園口まで戻った。

 書いてるうちに頭の中が纏まらなくなり、今回は随分と日数がかかってしまいました。次は宮城蔵王登山の記録を予定していますが、年内の事にはならないでしょう。


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