Z105.水戸八景(水門帰帆・巖船夕照・広浦秋月)

1.動 機
 先月末のゴルフで足を痛め、3週間経っても治らないので整形外科にかかったところ「これは肉離れだ。静養しかない」と告げられ、同期会のゴルフも自重した。そんな時に新聞茨城朝日に金砂大田楽研究会首掌の「第3回水戸八景ウオーク」の募集が出た。バスで移動となっていたので、八景をバスで移動しながら見て歩く軽いハイキングだから足慣らしの丁度いいと思って早速申し込んだ。いざ参加してみたら、水戸八景を繋ぐコース90kmを5回に分けて歩く今回が3回目ということで、水戸八景のうち、水門帰帆と巖船夕照と広浦秋月の3ヶ所を繋ぐ17kmのロングコースウオーキングだった。辞退という訳にも行かず皆さんに交じって歩いたが、リーダは時速5kmの快速でぶっ飛ばす。江戸時代の武士の鍛錬を地で行くウオーキングに、山歩き専門で平地歩きに慣れない我家はやっとの思いで皆さんに付いて歩いた。随分疲れはしたが、肉離れには悪影響なくすんで幸いだった。
 水戸八景については「Y32.常陸太田・歴史の里ウオーク」の時に山寺晩鐘の碑に出会い、少し勉強していたので親しみがあった。改めてNETでひたちなか市の【文化財講座】を開いてみると、あらまし下記のような紹介があった。
 「水戸八景」は,水戸藩の第9代藩主徳川斉昭烈公が,天保4年(1833)に江戸小石川邸より水戸に下り,領内を巡視し藩内の景勝の地8箇所を選んで選定したものです。
 水戸八景の地には,翌天保5年に斉昭自筆の書を刻んだ名勝碑をそれぞれ建てました。いま残る八景の碑はいずれもこの当時のものです。碑の意匠は各碑毎に異なり,石の種類・形・文字の配置に工夫が見られます。文字も水戸八分隷書の一つと呼ばれる独特の書体が用いられているだけでなく,古典文字と呼ばれる装飾的な文字が用いられています。

 これらの碑を結んで一巡すると約30里,およそ110kmの道のりで,水戸藩士子弟の鍛錬のために徒歩によるこの八景めぐりが奨励されました。


2.データ
a)山域:水戸八景(水門帰帆、巖船夕照、広浦秋月)
b)登山日:2012/10/21((日)
c)日程:
日立自宅 7:25 = 7:45 常陸太田市パルテイーホール駐車場 8:20 = 8:50 東海駅 = 9:20 那珂湊支所 9:25 ---- 9:30 水門帰帆 9:50 ---- 10:15 湊公園 10:50 ---- 11:05 巖船夕照 ---- 11:30 願入寺 11:40 ---- 12:35 舟渡集会所 13:15 ---- 13:20 舟渡集会所 13:30 ---- 14:20 コンビニ 14:30 ---- 15:10 広浦秋月 15:50 = 16:45 東海駅 = 17:15 常陸太田市パルテイーホール駐車場 17:25 = 17:50 日立自宅
(水戸八景3回目ルート)

(水戸八景3回目ルートの標高差)

d)同行者:大田楽研究会会員(男6、女2)一般参加者(男20、女15)、和子
e)地形図:1/25000 「常陸久慈」「ひたちなか」「磯浜」

3.山行記録
 朝食を済ませて7時半発車、集合場所の常陸太田のパルテイーホールの駐車場に向かった。下見をしてあったので問題なく時間15分前に到着したが、大勢の人がもう集まっていて、係の人から資料を渡された。これを読んで初めて勘違いに気が付いた。「水戸八景ウオーク」とは昔の武士が鍛錬のために一日で歩いたと言われる全コース約90kmを次の様に5回に分けて歩き通すと言う計画だった。
 1回目:太田落雁−村松晴嵐:17km(H23・6実施済)
 2回目:村松晴嵐−水門帰帆:16km(H24・5実施済)
 3回目:水門帰帆−巖船夕照−広浦秋月:17km(H24・10実施)
 4回目:広原秋月−仙湖暮雪−青柳夜雨:19km(H25・春予定)
 5回目:青柳夜雨−山寺晩鐘−太田落雁:24km(H25・秋予定)
 今回はこの三回目で17km歩かなければならない。顔ぶれをみると頼りなさそうな人もいそうなので、ゆっくりペースで歩くのだろうから、参加して歩いても大丈夫だろうと踏んだ。
 会長さんの挨拶に始まって、コースの説明や注意事項の話があってからバスに乗って出発した。途中、東海駅で3人の参加者を乗せて那珂湊支所前に9時20分に到着した。日曜日なのに支所は開いていてトイレを使わせてもらった。幹事さんが事前に依頼してあったので、支所の人がトイレの場所も親切に教えてくれた。
(パルテイーホール前)
(那珂湊支所)

 「水門帰帆」の碑はひたちなか市役所那珂湊支所の裏近くにあり、支所から歩いて5分程で着いた。碑は海側が絶壁になっている高台にあり、明治時代まで那珂川が眼下に流れていて、斉昭は白い帆の出船・入船を見降ろすことができたのだろうが、今は干拓されて那珂湊の街が広がり、太平洋はその向こうだ。次に向かう巖船夕照のある丘が海門橋の向こうに見えていた。
(海門橋の向こうに巖船夕照)

 参加者の中に物識りの人がいて、碑の前に来ると碑の由来など色々と説明してくれた。これから先、湊公園や広浦秋月では土地の有識者の説明が入ったが、他の要所要所でこの人が適時説明を入れてくれた。この物識りさんも各所での説明者も幹事さんの手配によるもので、個人で歩いていてはこんなお話は聞くことはできない。有難いことだった。
 碑は高さ2.15m幅1.25mの大理石を使用しているとのことで、碑文字は一列で「水門帰帆」の「帆」の字は見たことのない字体だった。2基の副碑があり,明治三十四年の『水門帰帆修繕之碑』と昭和十三年建碑の藤田東湖の七言絶句「遠望誰弁鳥邪雲・但見霏凝映落暉・一陣東風水門夕・吹成千片布帆帰」の碑がありました。
(説明あり)
(水門帰帆)

 水門帰帆の次、巖船夕照に行く前に30分程歩いたところの天満宮に立ち寄って、土地の古文書研究者による天満宮と文武館跡の説明を聞いたあと、その上にある那珂湊第一小学校の校庭に案内されると、そこに文武館跡の石碑があった。
「ひたちなか市指定史跡」
「文武館は、安政四年(1857年)に設立された水戸藩郷校である。水戸藩第9代藩主徳川斉昭は、天保6年(1835年)に藩政改革の一環として、現在の八幡町に郷校「敬業館」を建設した。やがて、激動する幕末には、水戸藩の藩校再編の中で、従来の敬業館とその敷地では規模が不足することから、敬業館の学問所としての機能に、新たに武館機能を加えて山の上に移し、「文武館」と称した。初代の館主は雨宮鉄三郎であった。文武館の施設は、本館、館守舎、井戸等からなっており、文庫の書籍は敬業館から移管されたものである。敬業館と明らかに異なる点は、鉄砲場が設けられていることで、鉄砲の操練が重視されていた。藩士ばかりではなく、商人をはじめ相当の数の人が学んだといわれているが、元治甲子の乱(1864年)でことごとく破壊されてしまった。」
 文武館のあとはすぐ隣の「い賓閣跡」に案内された。ここは広い敷地一面が芝生で整備され、向かいの高台には黄門さまが植えたと言う格好の良い松が多数、敷地の真ん中には茨城国体の時の土俵跡がそのまま残っていた。ここでは「い賓閣跡」の調査をしている研究者の説明があった。
 説明を受けている足元に昔の井戸を掘りあてたとの話があり、立派な井戸の写真も見せられたが、市から元の状態に復元せよとの指示で今は見ることが出来ないとのこと。残念。
 「い賓閣は元は下の浜辺にあったが、丁度徳川光圀が宿泊した時に大津波に襲われ無事に逃げたが、その後元禄11年(1698)に徳川光圀がこの高台に建て直した。湊御殿,お浜御殿とも呼ばれ、歴代の藩主によって,しばしば宴会や詩歌の会が催されていた。しかし,い賓閣は元治甲子の乱(1864)で焼失し,その跡は,荒れ果てたままであったが,明治30年に湊公園として整備,保存された。この高台の東方には,海防見張番(異国番所)もおかれ,御水主人の人々が,常に海防の任にあたっていた。」とのこと。
その後、向かいの松の丘に立ち寄って湊公園を後にした。
(文武館跡)
(い賓閣跡)

 湊公園を出るとすぐに海門橋になる。左に那珂川河口の美しい景観を眺めながら海門橋を渡り、かんぽの宿の下の道を歩いていくと「巌船夕照入口」の看板があった。
 入口の看板から脇道を下って行くと那珂川と涸沼川が合流する所の右岸に,「巌船夕照」の碑があった。
(海門橋を渡る)
(巖船夕照)

 碑から眺める対岸の那珂湊の景色は素晴らしく、説明者によればい賓閣跡や幕末に大砲を造った那珂湊反射炉跡も見え、水門帰帆を見通す事ができるとのことだった。往時は上り下りの船が那珂川を通り,にぎやかな港風景を見せていたことでしょう。
筑波山あなたはくれて岩船に 日影ぞ残る岸のもみち葉  烈公
(那珂川・涸沼川)

 「巌船夕照」からかんぽの宿の前の車道を歩くとすぐに願入寺の山門があった。願入寺は黄門さまが48歳の時に寄進したもので、開基は親鸞の孫如信とのこと。代々の徳川家の御姫様がこのお寺にお嫁入りしたとのこと。一番目を惹いたのは東日本最大重さ12.5トンのやすらぎの鐘、お堂は重さに耐えられるように丈夫な鋼鉄製だった。
 願入寺を「出たのは11時40分、お腹が空いて来たが、ここから大洗ゴルフ場脇を通過、1時間歩いて舟渡の集会場に着いた。昼食は野原で食べるのかと思っていたが、この集会場の中に上がって弁当を広げた。
(願入寺の大鐘)
(舟渡集会所)

 昼食を終えてから涸沼川に向かうと、涸沼川から少し引っ込んだ運河の様な所があった。ここが「勘十郎堀」という江戸時代のいかさま公共事業の見本とのこと。説明によれば「昔、勘十郎という流れ役人がいて、干拓地に那珂川から引く水路を作る仕事を引き受け、近在の農民を狩り出して長期間苦役を課してその工賃を踏み倒し、計画も浅学無謀で結局役に立たず、船を浮かべることもできなかった。県北の百姓達が大挙して江戸に押し寄せる水戸一揆が起こり、結局勘十郎は獄死することになった。」
 ここまでで今日の行程の半分程だ。まだ先は長い。リーダのペースは相変わらず時速5kmのハイペースのまま、初め頼りなく見えた人も平気な顔で付いて行っている。負けるわけにはいかない。頑張るしかない。しばらく車道を歩いてR51の涸沼川橋を潜ったところから涸沼川沿いの干拓地の農道に入っててくてくと歩いていった。涸沼川の堤防が低いことが話題になり、洪水になったら田圃は全滅だろうに大丈夫なのかなと心配しあった。
(勘十郎掘跡)
(涸沼川沿いの干拓地)

 釣り人が多い涸沼川沿いを歩いて行き、大貫橋で一旦広い車道に出たがすぐにまた農道に分かれた。安全のために車道は出来るだけ避けて歩いている。コンビニで冷たい物を飲んだりトイレを使ったりして今度は涸沼に向かって広い道を歩いて行った。
(大貫橋)
(涸沼へ)

 舟渡集会場を出てから2時間、やっと涸沼の湖岸に出た。17kmのロングランがやっと終わってホッとする。茨城町の観光資料を色々頂いた。
 湖岸には広浦公園の表示があり、脇に小さな神社があった。ここでも土地の古事研究者により大杉神社と広浦秋月についての説明があった。
 その昔、涸沼付近の村落に天然痘が流行して死者が続出、その惨状に村内協議して舟玉の神であり疫病退散の霊験顕たかな大杉大明神を祀って天然痘退散を祈ることを決し、阿波大杉神社を分祀したのがこの大杉神社だとのこと。
(広原公園)
(大杉神社)

 大杉神社から砂浜沿いを少し行ったところに「広浦秋月」の碑があった。「この涸沼の北岸の湖面に突き出た砂洲の南側を広浦といい、この辺りから眺める涸沼の景色は,広大な水面と筑波山が望めてとても美しいものです。広浦の湖水に映る秋の月は、昔から風雅な人々によって賞賛されてきた。「広浦秋月」碑の左にあるのは「保勝碑」といい、選定の経緯等が記されているのだが、風化のため今では判読が困難になっています。」
大空のかけをうつしてひろ浦の なみ間をわたる月そさやけき  烈公

 近くでは釣り人が多く、何が釣れるのか聞くとシーバス狙いだとのこと。以前は涸沼と言えばハゼ釣りだったと思うのだが、涸沼も様変わりのようだ。屯している団体さんから「筑波山」という言葉が聞こえてきたので、夕焼け模様になってきた向かいの空に目を凝らすと、筑波山の山容がうっすらと見えていた。写るかどうかわからないがシャッタを押してみた。
(広浦秋月)
(筑波山)

 広浦秋月の碑を見て広浦の駐車場に戻ると、朝那珂湊支所まで送ってくれたバスが待っていた。バスに乗って、幹事さんの挨拶を聞きながら常陸太田に向かった。途中、東海辺りで夕日が沈むタイミングになり、とても綺麗だった。この夕日を巖船夕照のところで見たかったねとみんなが思った。
(バス)
(夕日)

 パルテイーホールの駐車場に到着し、ご挨拶して解散。長い平地歩きは辛かったが、色々なお話を聞けてなかなか面白い一日でありました。


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