G81.(夫婦二人の山歩き)の夫の歴史(4)

今回は、G54.夫婦二人の山歩きについて(2)に掲載している文書(「夫婦二人の山歩き」の歴史)のうち、大阪府大を卒業して日立製作所に入社した時代の下記文章を、アルバムから見つけ出した昔の写真を付けて補完します。これは二人が出会った1965年7月30日以降、1968年4月21日に結婚式を挙げるまでの記録です。
結婚前
 寮時代、色気のない毎日を送っている私のことを見かねた石塚君が、付き合っていた高看生の初子さんと作戦を練り、同じ高看生で日立から袋田までの競歩大会で優勝したこともある頑張り屋の和子を私に引き合わせることを考え、会社の夏休みに合わせて、私と和子とを燧ヶ岳−尾瀬ヶ原ハイキングに連れていく計画を立てた。誘いを受けて嫌はなく、お邪魔虫の気兼ねは外に置いて喜んで同行させて貰うことにした。これが二人の馴れ初めで、二人揃っての百名山初登山でもある。
 燧ヶ岳−尾瀬ヶ原ハイキングのあと、石塚君初子さんのお二人は目出度くゴールインしたが、不器用な私と和子の方は一向に進展しない。石塚ご夫妻は業を煮やして、今度は奥穂高登山を計画してくれた。前と同じく計画は一切石塚君任せ、こちらはまたついて歩くだけと思っていたら、直前になって「急に仕事が入って俺たちは行けなくなった。宿の予約など全部できているから二人で行ってこい」とこともなげ。やむなく(?)二人で出かけることになった。厳しい山道だったが、よっぽど嬉しかったらしく、ツーショット写真がいっぱい残っている。これが百名山2座目だった。不器用な二人も奥穂高登山をきっかけに翌1968年4月にゴールイン。

1965年7月から
 石塚君が二人を引き合わせてくれた燧ヶ岳登山の様子は「H01.燧ヶ岳(出会いの百名山)」に詳細に記録されている。
(燧ヶ岳1965/7/31)
 入社後2年の研修生時代を卒業して企画員になると、労働組合の職場代表評議員に選ばれ、1965年7月で任期満了するまで組合活動にも精出していた。
(労組評議委員会任期満了1965/7/1)
 寮の委員会委員も務め、寮務員と一緒の慰安バス旅行を計画し、植田海岸で地引網、民宿で浜料理の昼食、五浦海岸ハイキングを楽しんだこともある。
 (植田海岸で地引網を引く)
(賑やかな昼食会)
(五浦海岸)
(寮務員慰安旅行:勿来植田海岸1965/8/7)
 当時水車は受注多く好景気、深夜残業や休日出勤が多かったが、暇な時には寮の遊び仲間といつも一緒、夏は近くの海岸に出かけて海水浴、テニスの練習にも精出していた。。
(ミスターユニバース小テスト1965/8/15)
(テニストレーニングスナップ1965/8/16)
 組合の評議員の任期が切れると、今度は西山研修所での修養団の修行に出された。仕事を離れて、有難いお話を伺ったり、異なる世界の人とのお話合いも面白かった。
(修養団参加1965/9/14〜16)
 10月10日には多賀工場との対抗戦があり、大矢君と私のペアーは楽勝したが、チームとしては3勝5敗6引分で負けだった。この一週間後大矢君の結婚式。
(多賀工場戦1965/10/10)
(多賀工場戦1965/10/10)
 11月21,22日と4人組で一泊で昇仙峡、大菩薩峠のハイキングに出かけた。富士山の写真がたくさん残っている。
(昇仙峡〜大菩薩峠1965/11/21.22)

1966年
 1966年の正月にに帰省した時には父、義母共に元気、末弟も小学6年生話し相手になっていた。広大4回生の3男も帰省していたが、姉と長兄は帰省しておらず、父母は少し淋しかったかも。


(正月帰省1966/1/1)
(正月帰省1966/1/1)
 冬になると毎週のようにスキー、1月15,16日裏磐梯、1月23日猪苗代に続いて、1月31日には新婚ホヤホヤの大矢夫妻と猪苗代に出かけた。
(猪苗代スキー場1966/1/30.31)
 続いて2月5,6日猪苗代、2月19日岳温泉、2月27日猪苗代、に続いて3月5,6日には日光にまで出かけている。
(猪苗代1966/2/5-6)
(日光1966/3/5・6)
 3月19〜21日一年先輩の三人に連れられて万座温泉に出かけた。滑っている姿は残っていないが、畚岳や浅間山が雪を被った景色が残っている。
(万座温泉スキー場)
(一休み)
(志賀高原・飛び出すのは畚岳)
(浅間山)
(万座温泉1966/4/2-3)
 5月連休にはスキー好き10人が集って八甲田山まで出かけてきた。4月29日:大岳コース、4月30日:猿倉岳、5月1日:硫黄岳
(八甲田スキーメンバ)
(猿倉岳パラダイスより北八甲田:大岳・小岳・高田大岳)
(大岳頂上より:雛岳・高田大岳・小岳)
(酸ヶ湯温泉)
(酸ヶ湯温泉から大岳)
(仙人岱ヒュッテ前)
(大岳頂上)
(猿倉岳パラダイス・硫黄岳大岳小岳)
(一列に並んで)
(硫黄岳へ長い長い登り)
(硫黄岳頂上にて見合い写真:小岳と高田大岳)
(八甲田1966/4/29〜5/1)
 スキーシーズンが終わると、日研部対抗卓球大会があり三部チームが優勝した。
部対抗卓球試合1966/6/12)
 寮対抗の体育大会も待っていて、卓球、囲碁、バレーボールに出場した。
(全寮体育大会1966/6/4)
 やはりテニスがメイン。寮内年度別対抗戦、電線工場との対抗戦、県大会など続き練習にも忙しかった。
(年度別対抗戦1966/6/27)
(対電線工場定期戦1966/8/28)
 会社ではソフトボールで課対抗などの親睦会もあった。
(部内課対抗ソフトボール)
(テニス県大会1966/9/23)
 山歩きでは7月30日から8月2日まで飯豊連峰大縦走。
(山都駅バス乗り場)
(中十五里でクタバッター)
(横嶺小屋にて一休み)
(種蒔小屋から:飯豊山は雲の中)
(飯豊山荘)
(玉川渡って)
(山道歩いて)
(旭又滝)
(飯豊連峰縦走1966/7/30〜8/2)
 課会で御前山迄出かけて那珂川で水遊び
(課会御前山1966/8/14・15)
 そんな中、1966年8月31日をもって、水力実験所の建設にも尽力された山崎部長が定年を迎えられた。水力実験所の写真が残っているのはこれだけ。
 みんなが並んでいるのは小平台、実験所の4階部分の高さ。15m下の一階部分に水槽とポンプ室があり、並んでいる高い塔や圧力タンクに水を汲み上げ、実験室内4階にある模型水車に圧力水を供給する。模型水車を通過した水は吸出しタンクに入り、圧力を調整されて一階の池に戻る。ポンプの出口弁と吸出しタンクの出口弁との調整により模型水車の入口出口の圧力が調整され、模型水車に直結された動力計の制御により模型水車の回転数が制御されて、実物水車との相似運転が再現される。
(山崎部長退職記念1966/8/31)
 9月には山崎部長の歓送会もかねて、涸沼のハゼ釣りにも出かけた。
(課会涸沼ハゼ釣り1966/9/)
 テニスでは、大矢君とのペアーで全社大会のダブルスで優勝し、児玉杯、三寮対抗戦と続いた。
(日立工場選手権大会1966/10/23)
(第6回児玉杯1966/11/3)
(三寮対抗1966/11/13)
 11月に卓球の全社大会があり、6月の日研大会で優勝した三部チームが日研代表として出場した。5チームでの予選リーグでは優勝したが、トーナメントの成績は書いてない?

(卓球全社大会1966/11/6)

1967年
 この年の正月は五色温泉スキー場で年明けし、猪苗代、裏磐梯とスキーが続いた。
(五色温泉スキー場1966/12/29〜1957/1/3)
(裏磐梯スキー場1967/1/21・22)
 2月4日、5日には蔵王まで出かけて、樹氷原のスキーを楽しんでいる。
(パラダイスロッジ
(スキー場)
(樹氷原)
(蔵王スキー1967/2/4・5)
 2月には日立にも雪が積もり、早速高鈴山に登って珍しい雪景色を楽しみながらの安直スキー。
(日立の山にも雪が降る1967/2/11)
 2月の寮委員会が企画した猪苗代スキーバスには和子とそのお友達3人の姿が写っている。石塚君はもう寮にいないから、私が誘ったのか?
(知新寮スキーバス・猪苗代1967/2/18・19)
 スキーもだんだんと遠出が多くなってくる。3月4日、5日には志賀高原、
(志賀高原1967/3/4・5
 4月30日から5月4日までの5月連休には八幡平まで出かけて、5日間連続で山スキーを楽しんだ。
(いつものメンバ)
(観光ホテル前から茶臼岳)
(茶臼岳頂上)
    諸桧岳           畚岳                  八幡平山頂       源田森
 岩手山         黒倉山 姥倉山          小松倉 大松倉   三石山 烏帽子秋田駒 大深山  険阻岳
(茶臼岳頂上からの展望)
(黒野地)
(源太森から茶臼岳)
(源太森から畚岳と八幡平)
(源太森展望台
(八幡平頂上)
(後生掛温泉)
(湯気もうもうの大湯沼)
(栂森から八幡平と畚岳)
(八幡平村の桜)
(八幡平ツアー1967/4/30〜5/4)

 このころから二人だけのデートの写真も現れてくる。デートは主に、映画や私の好きだった新劇鑑賞だったので写真をとる機会はなかった。八幡平スキーから帰ってすぐ次の日に二人で会って、新茂宮川で釣りをしたようだ。
新茂宮川1967/5/5)
 高校陸上体育大会の応援バスに便乗して東京見物もしている。
明治神宮国立競技場1967/6/18)
(絵画館1967/6/18)
 寮野球チームの写真に引退試合と書いてある。誰が?私が?
(寮野球引退試合1967/6)
(寮のビリヤード)
 森本ペアーと一緒に日立港での花火大会を楽しんだ写真があった。
(日立港花火大会1967/7/17)
 なかなかはっきりとしない二人の様子を見て、石塚夫妻が援助の手を伸ばしてくれたのが奥穂高登山だった。(奥穂高登山をクリックで山行記が現れます。)
(奥穂高1967/7/30)
 この奥穂高登山で二人とも覚悟を決めて、石塚君の目論見通り急接近して婚約、8月に運転免許証を貰ってマイカーとしてオースチンの中古車を購入、9月には阿字ヶ浦までよろよろ運転で出かけ、磯崎海岸までランデブーした。
阿字ヶ浦1967/9/3)
(オースチン1967/9/3)
 9月10日にはテニスの県大会があり、また大矢君とペアーを組んで出場したが、和子も応援してくれた写真が残っている。
県大会1967/9/10)
 10月21日には森本君の結婚式、同期生も大勢参加したが、新婦の花束は和子が受け取った。
森本さん結婚式1967/10/21)
(府立大学同窓歓迎会1967/10/21)
 11日には紅葉真盛りの背戸峨廊に出かけてハイキングを楽しんでいる。野山に出かけると話が弾む、夫婦二人の山歩きの芽生え。
(背戸峨廊1967/11/3)
 この年も11月の全社卓球大会に出場している。右の写真は何をしているのか?同点でじゃんけんで勝負を決めたこともあったのかも。
(全社卓球大会1967/11/8)
 暮れには和子の実家・石垣家を訪問してクリスマスイヴを祝っている。
 正月にも帰省して婚約等いろいろと報告した。三男光男は広大修士課程、末弟正司は中学生、この年も兄整、姉渓子共に写真がない。
(クリスマスイブ1967/12/24)
(正月帰省1968/1/1)
  2月には二人で蔵王迄出かけて、樹氷を楽しんでいる。
(蔵王スキー1968/2)
 4月21日結婚式、媒酌人には前部長の山崎さんご夫妻にお願いした。父母は体調悪くて日立までやって来れず、長兄が代役を務めてくれた。
(結婚式1968/4/21)
 次は新婚旅行とどこまで書きましょうか。適当にして、早く山歩きの部に入らないといけませんね。


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