B14.天神山と東海村散策

1.動 機
 水戸アルパインクラブの1月例会は「天神山登山と東海村の文化財の探訪ウオーキング」と題し、いつもの山登りとは一味違った面白そうな企画だった。天神山は標高17.4mの茨城県で一番低い山、これに登頂してもとても山登りしたとは言えず、メインは東海村の文化財マップを探索するウオーキングで、風邪をひいてやっと症状が和らいだばかりの夫婦には有り難い企画だった。とはいえ、案内書に書かれた8ヶ所の文化財地点を結ぶと歩行距離は20km近くになり結構きつそうだったので、途中で脱落するかもしれないと幹事さんに予告しての参加だった。東海村の文化財マップは車で回りながらしらみつぶしに探索済みだったので、文化財自体にはあまり魅力はなく、久しぶりの山仲間との顔合わせが楽しみで参加したのだが、東海村在住のリーダのウイットに富んだ語らいでの案内に惹きつけられ、重い足を引きずりながらもなんとか最後まで歩き通すことが出来た。

2.データ
a)山域:東海駅東
b)登山日:2014/01/19(日)晴
c)コースタイム:自宅8:30 = 8:50駐車場 ---- 8:50東海駅9:15 ---- 9:15オリーブの木 ---- 9:40舟塚古墳29:45 ---- 9:50舟塚古墳19:55 ---- 10:00モガミ様 ---- 10:15権現山古墳 ---- 10:20真崎古墳群10:25 ---- 10:25真崎コミセン10:40 ---- 10:45根曲り杉10:50 ---- 10:55カヤ11:05 ---- 11:10阿漕ヶ浦公園11:15 ---- 11:25細浦青畝碑 ---- 11:30虚空蔵尊11:35 ---- 11:40晴嵐三角点 ---- 11:45村松晴嵐の碑(昼食)12:15 ---- 12:30村松大神宮12:35 ---- 12:55天神山13:00 ---- 13:40エノキ ---- 14:00カヤの木 ---- 14:05住吉寒霜14:15 ---- 14:15シラカシ ---- 14:20モミジ ---- 14:45クヌギ ---- 14:50ホオノキ ---- 15:15東海駅15:20 ---- 15:25駐車場 = 15:45自宅
d)同行者:水戸アルパイン会員16名、和子
e)地形図:1/25000 「常陸久慈」
(東海村散策マップ)

3.1 山行記録
 私の風邪を引き継いだので和子の症状はまだ完治とは言えず、当初予定のJR電車は使用しないで、冷たい風に当たらなくて済む車で行くことにした。集合時間の9時に間に合うように我が家を出発、駅前の大型店の駐車場に停めさせてもらって東海駅に歩くと、リーダの平野さんはもうお待ちかねだった。挨拶を交わしている間に電車での仲間もやってきて18名全員集合済み、9時にミーテイングが始まった。
 チーフリーダの下山さんの挨拶のあと、19名の参加者リスト(内一名直前キャンセル)と、平野さんの細かい配慮が行き届いた資料集(「東海村文化財マップ」と、「新ぶらら東海さんぽみち」の当該部分のコピーに探索地点にマークを入れたもの、及びそれら文化財の写真だけを歩く順番にリストアップした写真集)が配布され、コースの概要が説明された。案内書には探索場所は8ヶ所だったが、実際には20ヶ所近くも見て歩くとあって、東海村在住の平野さんの説明を聞きながら歩くのが楽しみになった。最後に「車道も歩くので車に注意」の追加あり。
 集合場所の目の前に「いもジイ」の像があり、私は東海村の特産品のサツマイモの宣伝としか思っていなかったのだが、介護についても活動中の平野さんから、この像の謂れに付いて追加説明有。
    平成20年に東海村を会場に、これからの介護サービスのあり方についての全国サミットがあり、この「いもジイ」が公式キャラクターとして大会を盛り上げた。今後も東海村の高齢者支援と介護予防推進のキャラクターとして引き続き活用しようと,このマスコットを模した石像を作ってここに置いたもの。その後2度もいたずらで壊されて、杖などが補修された。たちの悪いいたずらには困ったものだ。
 歴史に詳しい稲田さんから東海駅の駅名について薀蓄の披露有り。
    東海駅は明治時代常磐線が出来た当初はこの地域の村名から石神駅と呼ばれていた。その後、昭和になり戦後の合併機運の高まりから村松村との合同の中学校が作られて藤田東湖の詩にある「・・・東海浜」から東海中学校の名前が付き、その後2村が合併したとき村名が東海村となり、駅名も東海駅と改称された
(いもジイ)
(ミーテイング)

 歩き始めてすぐに、大きなオリーブの木が聳える庭の前に来て、「40年前に小豆島から取り寄せられたものだが、この低温の地で実を付けるオリーブの木は貴重で村指定の文化財になっている。」
 オリーブの木から南に歩いて大型店に通じる広い通りに出ると、道向かいの長堀住宅の長屋群がすべて撤去されて綺麗に更地になっていた。去年の6月にこの近くにあるはずの馬頭根窯跡を探索した時には確かにここに長屋住宅街があったはずなのに、半年ほどの間に別世界になっていた。日本原子力研究開発機構の研究設備が老朽化してきたので、ここに新たに研究所を建設する計画だとか。東海村には随分と活気がありそうだ。
(オリーブの木)
(長堀住宅跡)

 コンビニに立ち寄って昼食などの買い物をしてから北に向かい、原研通りの手前の信号で右折し、東海中学校の裏道歩いて行ってまた左折すると、目の前にこんもりとした森が見えてきた。舟塚古墳のUだと思っていると、リーダもこの森の横を歩きながら「これが舟塚古墳の一つ」とおっしゃる。二人で探索した時はここまで来ないで反対側から眺めただけで、立入禁止の立札を見て中に入って確認することはしなかったが、こちら側から見ると古墳であることが良くわかる。ところどころ金網柵の裂け目から踏み跡が入っているようにも見える。リーダは中に案内することはせず、古墳の周りを半周して反対側からも眺めさせてくれた。そこからの眺めは二人で眺めた光景そのものだった。その時には手前の裸地だけを古墳だと思っていたのだが、森全体が前方後円の舟塚古墳Uだったのだ。
(舟塚古墳U全景)

 一旦原研通りに出て荒屋診療所の敷地に入って円墳の舟塚古墳Tに案内された。冬枯れの時期、踏み跡は歩きやすく、みんな墳頭の三等三角点にタッチして喜んでいた。気が付いてみると風神山が良く見えていて、川本家はあの山の下の方ですと紹介する。
(舟塚古墳T)
(舟塚古墳Tの山頂から)

 診療所を出てからリーダはまた脇道に入って行く。随分狭い道も歩いて角地に来ると「花いっぱい運動・もがみ様三角地」の立札のある花壇があり、その脇に石碑が二つ並んでいた。このモガミ様は二人で探索した時には立ち寄らなかった初めて見るポイントだった。
 モガミ様は疱瘡の神とも言われ、その昔、疱瘡(天然痘)は罹患すると高熱を出し死に至るとされた恐ろしい病だったころ、流行を恐れた村人はこの小祠が祀って守護を祈っていたとのこと。石祠の周りにはその後の寄進らしい小さな石像がいくつも祀ってあった。
(枝道を歩いて)
(モガミ様)

 ここからも田舎道をくねくねと歩いて行く。何回も下見して最短距離を選んで案内されているのだろう。15分も歩いて見覚えのある素鵞神社の鳥居前に到着、手前の看板で東海村指定文化財の前方後円墳権現山古墳とヤマザクラについて詳しい説明があった。素鵞神社はこの権現山古墳の円墳の頂上にあって、エゾヤマザクラもその脇に立っている。
(権現山古墳)
(素鵞神社石段)

 文化財のヤマザクラは説明板では樹勢も優れているとなっていたが、随分の古木で今にも枯れそうになっていた。前方墳の方にも根元から6本に別れた大きなヤマザクラの木があり、こちらはまだ樹勢旺盛だった。古木の方が倒れたらこっちが引き継ぐのだろうか。
(文化財のヤマザクラ)
(若いヤマザクラ)

 権現山古墳を横に出てから社宅の間を歩いて行ったところが真崎古墳群の公園である。この先行止まりの立札のところで、「ここから先は除染作業中で立ち入り禁止区域です。先日作業者に入らせてもらうようお願いしてみたが断られた」とのことで、ここで真崎古墳の説明があった。中を覗いてみたら、今日は日曜日で作業もお休み、入れないことはなさそうだったが、公式団体では駄目ですね。作業用のブルドーザがあり、小さな古墳のような削り取られた土砂の山があちこちにあり、黒いビニール袋の包みもたくさん積み重なっていた。古墳を削り取ってしまって遺跡の価値は残るのだろうか。
(真崎古墳群入口)
(除染作業で積まれた土とビニル袋)

 真崎古墳の北の道に出ると、こっちの方が正式な入口のようで、古墳群の配置図や「この場所は放射線量が村で定めた基準値(0.25μsv)を超えているので立ち入りを控えてください」の立札が立っていた。すぐ先にゲートボールを楽しんでいる人がいる真崎コミセンがあって、ここのトイレを借用して一休みした。
 ゲートボールを観戦した後、阿漕ヶ浦方向に向かい、途中で右折して坂を下ると5分ほどで「幹まがり杉」のところに着く。一旦下向きに曲がり反転してまた上に向かって伸び、S字に曲った幹は一見では理解ができなくて、初見の皆さんは驚きの声を上げていた。まわりの草木が冬枯れで去年6月に見た時よりもはっきりと見えていたので、いい写真が撮れるだろうと思ってシャッタを押したのだが、思ったよりも幹の様子が良く写っておらず、文化財マップの表紙の写真には及ぶべくもない。
(幹まがり杉)
(文化財マップの表紙)

 幹まがり杉から坂を登り返してまた阿漕ヶ浦方面に歩き、公園の手前で東海村指定文化財であるカヤとキリシマツツジの古木があるお家の前に来た。平野さんが御挨拶に戸を叩いたが生憎お留守の様子、無断で庭に入って観察させていただく。皆さん大きく枝を張ったカヤの大木に感じ入って幹回りに群がって説明を聞いている。大木の向こうの茂みに隠れた門があり、これが正式な入口門だったらしい。
 裏に回ってキリシマツツジの写真を撮って表に戻ると、このお家の歴史についての稲田さんの解説が行われていた。何代も続く旧家らしいが、詳しくは聞き落としてしまった。

今回の写真

文化財マップの裏表紙
(カヤ)
(キリシマツツジ)

 阿漕ヶ浦でまたトイレ休憩をしてから細浦まわりの道に下り、向かいに天神山の山並みを眺めながら10分もぞろぞろ歩いて行くと細浦夕照の碑の下に着く。ここで稲田さんの薀蓄。
    昔ここには阿漕ヶ浦、細浦、真崎浦の三つの湖があったが、細浦、真崎浦の2つの湖は明治初からの灌漑事業で埋め立てられ、現在は広大な田園地帯になっている。阿漕ヶ浦は原子力の用水池として活用され、渇水期で久慈川の水位が下がった時には久慈川が一部堰き止められたこともある。阿漕ヶ浦は魚が増え、釣りの餌やりなどで水が汚れて原子力は困ってるらしい。
 リーダは階段を登ってそのまま虚空蔵尊の方に歩いて行ってしまう。私一人休憩舎に立ち寄ると、去年5月には樹木で隠されていた細浦や天神山が綺麗に見えていて、今は冬枯れで細浦をバックに東海12景細浦青畝の碑の写真を撮ることが出来た。碑に彫り込まれた詩は
    広闊たる稲田の上を島影が掠める。宗祇の詠めし天神山をわきに見て、野坂をたどれば名も知らぬ小さき草の花々
(細浦と天神山)
(細浦青畝碑)

 少し遅れて皆さんの後を追うがR245の信号に引っかかって少々慌て気味、十三参りで混雑する道を急いで歩いてやっと追いついて、皆さんと一緒に仁王門を潜って虚空蔵尊にお参りすることができた。
 本堂の裏を回りこんで大神宮二の鳥居のところで左に向かい、三重塔の前を通って階段道を登って行く。
(村松虚空蔵尊)
(三重塔)

 すぐに四等三角点晴嵐の山頂に着き三角点にタッチした。ここの標高35.7mは東海村の最高地点である。
 三角点から飛び石の道を歩いて行くと「村松晴嵐の碑」がある。ここ村松晴嵐は水戸八景の一つで徳川斉昭直筆の文字を刻んだ碑があり、濡れ石で出来ていて昔は表面が何時も泣いているように濡れていたとのことだが、今は割れが入って乾いている。脇のマツの古木も格好がいい。
(晴嵐三角点)
(村松晴嵐碑)

 村松晴嵐の碑の前で集合写真を撮って、近くの広場で弁当を広げた。一番端に陣取ったが、あちこちから明るい笑い声が聞こえてくるし、色々お裾分けもまわってくる。
 食事が終わって大神宮に向かうのに海岸まわりの砂浜の道を案内された。村松海岸に向かう八間道路の分岐のところで、「この八間道は砂地の道なので元気な人の格好のトレーニング場所になっている」との説明があって、反対側の大神宮へ直接向かう道に入った。以前ボランテアさんにここを案内された時には、ここを直進して砂防林の間を歩いて二の鳥居のところに出たが、今回は大神宮のお参りをしていないのでこの道が取られた。
(お昼休み)
(八間道路分岐)

 大神宮の拝殿前に出てお参りし、隣の神楽殿で江戸時代の神輿を眺め、二の鳥居、一の鳥居と潜って天神山に向かった。
(村松大神宮)
(村松晴嵐分岐点二の鳥居)

 リーダは天神山系の北裾の道を歩いて行く。もしかして藪漕ぎをして天神山の・22mにも立ち寄るのかと心配していたが、切り通しのところまでまっすぐ歩いて行ったのでほっとした。今日は軽いスニーカなので藪漕ぎは無理で、・22mに立ち寄るときは離脱やむなしと思っていた。
 切通しに入ってすぐのところに天神山への分岐があり、ジグザグに登って行って17.4m四等三角点天神山に登りついた。茨城県一低い山に登頂して全員笑顔での集合写真が撮られた。
 見晴もないのですぐに引返し、途中から右の分岐に入って小浦(細浦と真崎浦の間にある干拓地に私が付けた仮称)沿いの道に下った。午前中はゆっくりペースでお話しながらのらくちん歩きだったが、ここからは東海駅の電車の時間を気にし始めたのか、リーダの歩くペースが速くなって付いて歩くのが大変。少し脇見していると、前との間ががっぽりと開いてしまう。
(天神山)
(小浦沿いを歩く)

 天神山を下りてすぐのところにガマの穂の群生する湿地帯があって、綿が付いたままの穂の姿が面白くて、触ってみようとしたが下が泥濘るんでいて思うに任せない。遊んでいると置いて行かれてしまうので諦める。
 どんどん歩いて行って、幹事長が務める会社があるという工業団地を左に見ながら歩き、広い動燃通りを横断するところでリーダから「川本さん、この先も一緒に歩きますか」と確認され、和子に目配せして「何とかついて歩けそう。頑張ります」と宣言した。今日は私よりも和子の方が足取りが重く、足が少し痛いと言っているが、頑張り屋なのでなんとか最後まで歩き通すことだろう。
 動燃通りを超えると広大な産業廃棄物最終処分場を左に見ながらどんどん歩く。更にスピードが上がった感じがする。この処分場はマップでは産業廃棄物処分場となっているが、柵に取り付けられた看板には一般廃棄物最終処分場となっていた。平野の少ない日立に住んでいると、こんな平らな一等地を埋立地にするなど勿体ない気がするが、どこまでも平らな東海村では平らでないところを探す方が大変なのだろう。
(ガマの穂)
(一般廃棄物最終処分場の柵沿い)

 天神山から2.6km、40分歩いて大きなエノキの木が見えてきた。今は葉を落として枝ぶりがはっきりと見えて、去年5月に見た緑したたる樹形とは違った迫力があった。
(エノキ)
(去年5月の写真)

 農道を引き返してから県道に出ると遥か先に緑の繁る大きな木が見えた。あれが県文化財のカヤの木だろうと期待しながら県道を歩く。1kmぐらい歩いたところを右に曲がると、塀際に見覚えのあるカヤの大木が立っていた。去年は道から眺めただけだったが、今回は平野さんが挨拶して庭の中に入れてもらい、御主人の案内もあった。近くから見ると、幹の途中からツゲなどの異種の木が伸びている。鳥が種の入った糞をして種播きをするらしい。代わる代わる大きな幹に触ってみてから、ご主人の話を聞かせていただく。25年前に調査を受け「樹高25m、目通り4.15m、樹齢300年」として県指定の文化財指定を受けた。それ以来大事に手入れしてきたが、少しずつ枝が伸びてきて、これだけ大きくなると屋根に触らないように枝切りするのも大仕事、業者に頼むと○十万円の見積もりが来てこれまた大変だ、など苦労話も伺った。
(カヤ)
(去年5月の写真)

 午後からは風が強くなってきて、取り入れが終わり乾燥した裸地になったいも畑の近くを歩く時には、物凄い砂嵐が襲って来て、その毎に鼻や口を覆いながら速足で通過しなければならない。通過した後は息切れして余分に疲れたが、洗濯物も外には干せそうになさそうだし、ガタの来た扉では部屋の中まで砂が入ってくるだろうとか、東海村の住人に変な同情も沸いてくる。
 カヤの木から少し歩くと鬱蒼と茂った住吉神社の森に着く。入口に「東海12景住吉寒霜」の石碑があり、案内板の前でリーダの説明があった。昭和時代には松の大木もあったが、途中で折れてしまい、今文化財となっているのはスギとサカキ、アカガシ2本だとのこと。
(土ほこり)
(住吉寒霜)

 鳥居を潜って大木が立ち並ぶ鬱蒼とした参道を歩いて行くと、左手に文化財標柱の立つスギとアカガシの木があった。スギの木の幹を叩いてもう枯れかけているなと言う仲間もいた。
(スギ)
(アカガシ)

 本殿の右に二本の木がくっついたり離れたりしながら成長してきた珍しいサカキの木にも東海村文化財の立札があり、裏出口にも村指定の文化財アカガシが立っていた。
 住吉神社を出て少し歩いたところに村指定文化財のシラカシの大木が立つ民家がある。お留守だったが、庭に入って近くから見させていただく。
(サカキ)
(シラカシ)

 更にその先の公民館の隣の須和間幼稚園に村指定文化財のモミジがあるはず。アレエ!モミジの姿が見えない。良く見ると、2mほどの高さのテラスの屋根の下で切り取られた太い幹だけがあった。以前はテラスの屋根を突き抜けて二本の幹が聳えていたのだが、去年の26号台風被害で折れてしまい、2m高さで切断されて、幹だけが保存されているということらしい。参考までに去年の報告の写真を付けておきましょう。
(根元だけになったモミジ)
(去年のモミジ)

 あとは最短距離で東海駅に向かうが、途中、村指定文化財のクヌギとホウノキを案内され、登り電車の発車時間15時27分の直前15時15分に東海駅に到着して、それぞれリーダにお礼の挨拶をして散会になった。歩行距離は16.2km、歩数は3万歩を越えていて、夫婦二人には限界すれすれのウオーキングだったが、久し振りにあった仲間に元気を貰って歩き通すことが出来、それだけに充実した一日になった。
(クヌギ)
(ホウノキ)

 

inserted by FC2 system