A54.東海村の文化財(5)

1.動 機
 先日16日の新聞に「東海村観光ガイドがスタートし、大神宮と村松山虚空蔵堂の42のスポットのご案内が出来るようになった。現地には毎日10時から15時までユニフォームを着た数名の会員が常駐していて、希望により30分〜2時間までの案内コースを無料で案内する。」との記事が出ていた。東海村の文化財マップに虚空蔵堂のI鐘馗霊神絵馬、J霊験木とM村松晴嵐の碑が載っているので、近々訪れる積りでもあったので、早速出かけて案内して頂いた。何時もの二人だけの通り一遍の物見遊山とは違って、色々と貴重な面白いお話を伺いながら充実した見学をすることが出来た。
(村松山虚空蔵堂・大神宮の案内)


2.データ
a)山域:東海村
b)撮影日:2013/5/19(日)
c)コースタイム:
自宅9:45 = 10:05駐車場 = 10:15大神宮二の鳥居 = 10:30大神宮拝殿 = 10:50防砂林造成の碑 = 11:05虚空蔵尊仁王門 = 11:25本堂 = 11:35奥ノ院 = 11:50晴嵐の碑 = 12:00三角点 = 12:05二の鳥居 = 12:15駐車場 = 14:00自宅
d)同行者:和子

3.記録写真
 R245の虚空蔵尊交差点にある駐車場に車を入れて、200m歩いた先の角を曲がったところに村松山虚空蔵尊の石柱と大神宮の一の鳥居が立っている。ガイドさんが待機しているという虚空蔵尊の仁王門にはもうユニフォームの姿がなく、右奥の大神宮の二の鳥居をまで歩くと駐車場に緑色のユニフォームを着た一人のガイドさんが待機していた。
(虚空蔵尊と大神宮の入口)
(大神宮二の鳥居)

 ガイドさんは(東海村観光案内ボランテア「とうかい村いきいきガイドの会」北岸外茂治)の名札を示しながら「このガイドは5月1日からが始まったばかり、慣れないですがよろしく」と挨拶されて案内が始まった。
 駐車場入口に(朝陽は山気を立ち昇らせ、遥かに白砂青松を見晴かす。背に虚空蔵尊、大神宮の床しい御堂)の唄が刻まれた東海12景村松晴嵐の石碑があり、これを示しながら「以前はここらから海岸が見渡せて展望が良かった。烈公の水戸八景にも選ばれて虚空蔵尊の奥の丘の上に水戸八景の村松晴嵐の石碑が立っている。」
 二の鳥居の形を示しながら「この鳥居は島木がなく笠木が5角形で神明鳥居という。昔は木製だったが朽ちたので1971年に石造りに建て直された。一の鳥居は皇紀二千六百年を記念して1940年に建て替えられていた。」「この大神宮は708年創建で、庶民が伊勢まで歩かなくてすむように黄門さまが伊勢神宮の分霊を祀る社殿を造営した由緒ある神宮です。」
 参道の真ん中に「開運・これより出世参道」の立札が立っていて、鳥居の左にある立派な石の和文、英文併記の由緒を読み聞かせながら「クリントン大統領が2002年に水戸に来て若者相手の講演をしくれた時、お礼に帰国時の安全を祈願したこの大神宮のご神札を贈った。クリントンさん自身が高校時代からの大統領になる夢を実現したという講話に因んで、この参道を出世参道と名付けることになった。」
(東海十二景の石碑)
(出世参道)

 参道の中間左手に水溜のないつくばい石があり、「これを何と読みますか?」。真ん中に口を囲んで4つの文字が書かれた普通のつくばい石の写真を示しながら、「これは口を組み合わせた漢字を作って(吾唯足るを知る)と読むのにならって、(徳到・健到・知到・福到・重到・志到・恵到・安到)と読みます。」 
(村松大神宮のつくばい石)
(豊受皇大神宮のつくばい石)

 参道から菊の御紋の入った石灯籠に挟まれた石段を上がったところに、(義公こしかけ石)と(義公御手植えの梅)があった。昔のまばらに松が生えている海岸の風景写真を示しながら「このあたりは海の見晴らしがいいところで、黄門さまが参拝においでになった時はここで休みながら景色を楽しむのが習わしだった。」
(菊の御紋の石灯篭)
(義公こしかけ石)

 大神宮の拝殿前で、二拝二拍手のお参りをして、左手の神楽殿を案内された。中には真ん中に大きな天狗の面があり、両側に神輿が置いてあった。左の神輿は水戸藩から下賜された飾り神輿で、右にあるのが実際にお祭りで使われる神輿で、天狗のお面はそのお祭り行列の先頭を歩きます。」
(大神宮拝殿)
(神楽殿)

 神楽殿の並びに、大神宮競馬祭(ヤンサマチ)再興の碑、三峰講の碑と続き、拝殿の裏に本殿、その囲いの周りに愛宕神社、晴嵐神社などの摂社 があった。
 ヤンサマチ再興の碑を見ながら、「(ヤンサマチ)の呼び方は近在の村々の各鎮守の神輿がそれぞれの氏子に担がれて、ここ村松大神宮から磯前の酒列磯前神社までの海岸を『やんさこら』の掛け声をかけながら繰り出したことに由来する。その時、村々から選ばれた名馬がその間の2里8町の砂浜を競争していた。多くの観客で賑わっていたが、戦時中、近在の馬も軍用馬に全部駆り出されたため、走る馬がいなくなってその後は途絶えたままになっている。」
 拝殿の後ろに本殿があり、その屋根上に見えた「千木(ちぎ)」と「鰹木(かつおぎ)」と呼ばれる飾りについて説明有。「千木」は両端にある十字に組んだ飾り木で、端を垂直に切ってあるのが男性、水平に切られているのが女性。「鰹木」は奇数本が女性、偶数本が男性を表わしています。」。摂社の晴嵐神社の鰹木は5本、千木の端は垂直、本殿の裏に回って見上げると、本殿の鰹木は10本、千木の端は水平だった。
(ヤンサマサ再興の碑)
(晴嵐神社)

 裏に回り込むと奥ノ院の右手から村松海岸への道標がある道が分かれていた。砂の道を歩いていくと視界が開け、遠くに太平洋がわずかに眺められ、左手に大強度陽子加速器施設(J-PARC)の青い屋根が見えていた。
 そこには(砂山に幸あれ松乃美登里哉)の句から始まる「村松海岸砂防林造成の碑」が立っていて、これを見ながらの話。「ここは天然クロマツがわずかに生える広漠とした砂丘地帯で、塩田を生業にしていた集落が一夜にして砂の中に消えたという伝説もあるほど風害砂塵害の多いところだった。細々と砂防用のクロマツが植えられていたが、大正7年に(海岸砂防林造成に関する試験地)に選ばれ、砂防垣の設置から始まって3期に渡って192ヘクタールに植栽が行われ、その後の日本各地の砂防林造成作業の見本になった。」
 近くにJ-PARCの説明板があり、その近くで赤い実を付けた植物を見ていたご婦人連れが「この植物の名はなんと言うのですか?」と問い合わせたのに対し「私は植物に弱いですが、多分、ドクウツギでしょう。食べない方がいいですよ。」。帰宅後図鑑を調べたらその通りだった。
(村松海岸へ)
(砂防林造成の碑)

 海岸の柵沿いの遊歩道を歩いて行き、途中から右に曲がると二の鳥居の駐車場のところに戻った。参道脇に立っているクスノキがとても大きく目立って見えた。東海村文化財指定の大木に引けを取らない見事な樹形に「これは文化財にはならないの?」と問うと「まだ若いから無理でしょうね。」
 次は隣の虚空蔵尊仁王門に入って、まずは虚空蔵尊の説明が始まった。「虚空蔵尊は807年弘法大師の創建になり、1485年戦火で焼失、本尊は戦火を免れて頭白上人が村松山日高寺として再建、家康が朱印地を寄進、黄門さまが堂宇伽藍を改修した。1900年、門前町の大火からの類焼でことごとく消失したが、本尊、鐘馗霊神絵馬、霊験木などは火災から免れ、大正時代から順次再建されてきて現在の姿になり、2007年に創建1200年記念事業が行われた。
(クスノキの大木)
(虚空蔵尊の仁王門)

 高さ2.5mの真っ赤な仁王様を見て山門を潜ると、本堂前の広場に高い土台の上に建つ鐘楼堂があった。「この鐘は除夜の鐘以外は一般人は打つことはできない。立ち入り禁止で近よれないが、鐘の表面にはいくつかの唄が刻まれている。鐘は2.5トンもあって重いが、屋根がチタン合金で軽くできているので、大震災でも被害を受けないで済んだ。」
 ここで東京から来たとおっしゃるご夫婦が近づいてきて、「一緒に聞かせていただけませんか。」「どうぞ、どうぞ!」。寺社についての造詣が深いご夫婦で、色々と質問も出て、この後が一層面白い充実した見学になった。
(鐘楼と本堂)
(鐘の彫刻)

 鐘楼堂の右手には開運堂があって、「このお寺は丑寅(鬼門)を守るお寺だが、丑や寅生まれでない人にもお参りの御利益があるようにと、他の干支の神様もこの開運堂の中に祀ってある」とのこと。中を覗いてみると、私の兎年の文殊菩薩や和子の午年の勢至菩薩も祀ってあった。
(開運堂)
(開運堂の中)

 このお寺は丑寅(鬼門)を守るお寺なので、牛と虎の石像が狛犬さんのように本堂前に並んでいる。この像に触るとご利益があるとおっしゃるので、有り難く牛と虎の頭を撫でたが、石は柔らかい徳川家墓石専用だった斑石を使っているとのことで、頭はつるつるになっていた。
 本堂護摩壇に登ってお参りをしてから本堂の中を覗いてみると、金網越しだが有り難いご本尊のほか、きらびやか装飾彫や天井画が目を惹き、回廊まわりにも獅子や葵の御紋の見事な彫り物が数多く飾られていた。
(本堂内部)
(回廊の彫刻)

 本堂の裏に怖そうな髭面の鐘馗様の像が立っていて「鐘馗様は同じ鬼でも悪いことをしない人を救ってくれる鬼である。延宝の世に伝染病が大流行した時、その鐘馗様の絵馬を奉納したところ大流行が治まったと伝えられ、300年以上の昔のこの大きな絵馬(1.5m×2m)がこの鐘馗霊神堂に収められている」とのことなので、狭い格子の間から中を覗いてみた。暗いうえに上半分が御簾で隠れていて足の部分しか確認できなかった。
(鐘馗霊神絵馬説明板)
(実物絵馬)

 鐘馗霊神堂の近くに安産地蔵尊があり、「もう関係ないわね」と東京のご夫婦と笑いながら通り過ぎ、まだ真新しい石段を登ると奥ノ院と三重塔への石段前に着く。
 「奥ノ院は多宝塔ともいい、虚空蔵菩薩の五十年に一回の開帳記念として1934年に建立され、大満虚空蔵尊が安置されている」という。その修復記念碑が石段改修記念碑と並んで立っていた。
 三重塔の前に(野を横に馬引向けよ時鳥)の松尾芭蕉の句碑があったが、「芭蕉がこの地を訪れたという記録はなく近在の芭蕉愛好家が建てたものらしい」とのこと。
 その上にそびえる三重塔は「1900年の大火で焼けた後、再興百年記念事業として1998年に再建された。塔の高さ21m、大日如来が安置されている。」塔の頂上の宝輪は更に新しく補修されたとのことで金ぴかに光っていた。
(奥ノ院)
(芭蕉句碑と三重ノ塔)

 三重塔の手前に1977年に建てられた山村暮鳥の(おう土よ生けるものよ その黒さに太古のかほ りがただよつてゐる)の詩碑があり、「刻まれている詩は暮鳥の詩集(土の精神)の中の黒い土の一節で室生犀星の書による。」 
  更に丸太の階段道を登った丘の上に、佐藤佐太郎の(晴れし日の砂山の上濡石はみづから濡れて膏のごとし)の歌碑があった。「佐太郎は近くの小学校の校歌を作った詩人で、1978年に来県した折に,四季を通じて常に濡れていて(濡石)と呼ばれていた村松晴嵐の石碑に気持ちを動かされて詠んだ唄です。」
(山村暮鳥の碑)
(佐藤佐太郎の碑)

 佐太郎の碑から丸い飛び石を踏んで右に進んだところに、石の囲いの中に松の古木と並んで村松晴嵐の石碑が立っていた。「烈公が1833年に水戸八景の一つとして選定して建てた石碑で、自然石に漢隷書体で書かれた(村松晴嵐)の文字は,烈公自身によるものです。石は斑石で表が常にぬれていたため「濡れ石」とも言われていたが、その後下部に割れが入ったためか今では濡れることはない。」
 水戸八景は烈公が水戸近在の眺めのいいところ8ヶ所を選んで石碑を建てて、藩内の子弟の鍛錬に八か所を結ぶ110kmの道のりを徒歩で歩くことを奨励したという。常陸太田なかみなと、水戸偕楽園の石碑を車で見に行ったことはあるが、これを全部歩きとおすのは大変だっただろうなと往時の人たちの健脚ぶりに感じ入る。
 水戸八景の石碑のところから少し引返したところから右手に入った一番高いところに四等三角点晴嵐が埋まっていた。「標高は35.7mで東海村で一番高いところだ」という。R245の向こうにある近くの天神山22mよりも13m高い。記念写真を撮らせてもらった。
(村松晴嵐の碑)
(四等三角点晴嵐)

 ここから仁王門に引き返して2時間コースの案内が終わって、長い時間しゃべりっぱなしだった北岸さんにお礼を言ってお別れしたが、東京のご夫妻は大神宮の方は話を聞いていなかったので、北岸さんは引き続き大神宮の案内に向かわれた(最初にある二の鳥居の写真はその時のもの)。24名のメンバーの回り持ちで毎日案内しておられるが、無償での活動に頭が下がり、トップの案内書\100を2枚購入させていただいた。しばらく休んでいる小学生登下校時の安全パトロールもそろそろ再開しなければならないなと思う。
 色々面白いお話を聞いているうちに、文化財マップの霊験木の所在について尋ねるのを忘れてしまった。次の機会、近くに来たとき、他のガイドさんにでも聞いてみよう。




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