C82.阿字ヶ浦ウオーク(健歩の会)

1.動 機
 新聞に{”夏”早朝ウオーク「阿字ヶ浦駅から中生代白亜紀層海岸を巡る」}の知らせが出ていた。このコースを歩けば今年3月に歩いた大洗2月に歩いた那珂湊とつながるとの思いもあって参加してみたいと思ったが、ここのところ連日35度を超える猛暑日続き、真夏の太陽のもとで10km超のコースを歩くのは気が重い。ところが天気予報はウオーク当日の8日から急に気温が5度ぐらい低くなるとの予報になり、早速参加申し込みの電話を入れた。申込みは小泉さんへとなっているだけで主催者が何か判らなかったが、当日、勝田駅から初めて乗るひたちなか海浜鉄道湊線(湊線)に乗って、乗り合わせた同行者から初めて健歩の会の存在を知った。
 参加者は多く、役員含めると50名を超えているように見え、貰った地図にはコース中の名所ポイントに@阿字ヶ浦駅、J那珂湊駅を含めて11のナンバーが付けてあった。阿字ヶ浦駅で出発式、すぐ近くのA堀出神社にお参りしてB阿字ヶ浦海岸に出て、C比観亭、D酒烈磯前神社を見てからI那珂湊漁港に至るまで海岸の道を歩くコースだった。途中適度に休憩や説明が入りながら、馴染みの仲間らしい和やかなウオーキングを味わった。
 

2.データ
a)山域:平磯海岸通り(10m)
b)登山日:2015/8/8(土)晴一時曇
c)コースタイム:
8/8:自宅 6:05 ---- 6:20 大甕駅 6:24 = 6:39 勝田駅 6:53 = 7:20 @阿字ヶ浦駅 7:55 ---- 8:00 A堀出神社 8:05 ---- B阿字ヶ浦海岸 ---- 8:35 C比観亭跡 8:40 ---- 8:40 D酒烈磯前神社 9:00 ----E白亜紀層海岸---- 9:25 清浄石 9:35 ---- 9:50 F平磯海浜公園 10:20 ----G平磯海岸---- 10:50H姥の懐マリンプール ---- 10:55 那珂湊天満宮 ---- 11:10 那珂湊漁港 11:20 ---- 11:25 Iおさかな市場(昼食) 12:25 ---- 12:50 J那珂湊駅 12:52 = 13:06 勝田駅 13:17 = 13:31 大甕駅 ---- 13:50 自宅
(阿字ヶ浦ウオークの歩行軌跡)
(阿字ヶ浦ウオークの歩行軌跡標高差)
d)同行者:健歩の会会員他約50名、和子
e)地形図:1/25000 「那珂湊」「磯浜」

3.山行記録
 前日大甕駅の窓口で湊線はスイカは使えないと聞いて、乗車券を買っておいた。朝早起きして、大甕駅で小山行きに乗って勝田駅でひたちなか海浜鉄道(湊線)に乗り換える。今まで湊線には乗ったことがなかったが、常磐線とプラットホームも共用で、小山行きから降りて先に改札口があった。
 待っていた一両編成の気動車(電車ではない)に乗ると、乗客は30名ほど、殆どがハイキング姿で同じ行事に参加する人らしく、更に挨拶や話の具合からどうも同じ同好会の仲間の人たちらしい。訊くと、茨城県ウオーキング協会(IWA)の仲間で、今回は「東海・ひたちなか健歩の会」が幹事役を務めていることが分かった。
(ひたちなか海浜鉄道勝田駅)
(貸切状態)
 湊線は全線単線の線路で、始め少し街中を走ったが、やがて広い稲の田圃の中を走るようになり、那珂湊駅を過ぎると、一面薩摩芋の畑になった。東海辺りにも薩摩芋畑が多いが、これほど広い薩摩芋の畑は見たことがなく驚いた。
(稲作田圃)
(薩摩芋畑)
 阿字ヶ浦駅で降りると、幹事さんたちが待っていて、見たことがあるような顔の人が「川本さん?」と声をかけてきた。なんと私の現役時代の実験所の保守整備でお世話になっていた小泉さんだった。小泉さんは私より年上だが、元気はつらつ、東海・ひたちなか健歩の会の会長を務めておられる。資料を渡しながら参加者の確認が行われ、はっきりとした人数は記録しそこねたが50名以上はいたように思う。会長やIWA役員の挨拶のあと、参加賞の授与があったが、30回や50回などほか77回参加の人もいて、長く続いている同好会のようだった。しっかり準備運動をやってから歩き始めた。
(@阿字ヶ浦駅で出発式)
(準備運動)
 歩く道に車道もあるので、2班に分かれて整然と歩いていく。阿字ヶ浦駅からすぐのところに堀出神社の鳥居があった。
(出発)
(A堀出神社鳥居)
 鳥居を通って老木の繁る参道を歩いて行くと、幣殿の手前に老人の胸像が祀ってあった。説明者の話によると、これは小池吉兵衛の胸像で、那珂湊の湯浅藤七と一緒に干し芋の製造を始め、二人のほしいも栽培・加工方法によって茨城県のほしいも造りが広まったということらしい。那珂湊からこっちに薩摩芋畑が広がっていた訳が分かった。
 拝殿前に集まって、代表者の所作に合わせてみんなでお参りする。堀出神宮については神宮のHPに下記記述があった。
    当神社考古学者で知られている徳川光圀公が塚を掘り起こした際、 御神体が出土されたことにより鎮座された比較的新しい神社です。 社名は、「掘って出た」ことにより堀出(ほりで)神社と命名されました。古くから学問・厄除け祈願の八幡さま・・と信仰されて来ました。
    また、日本一の干し芋(かんそ芋)の先駆者(小池吉兵衛公)の銅像もまつられています。夏は海水浴・冬は干し芋の郷におこし下さい。
(小池吉兵衛公の銅像)
(A堀出神社)
 堀出神社参拝後は、阿字ヶ浦の海水浴場に向かう。茨城でも人手の多い人気の海水浴場とのことで、今日も大勢の人が浜辺で遊んでいる。
 海水浴場わきの道を歩いていって、酒烈磯前神社の大鳥居の手前にある比観亭跡に立ち寄った。
(B阿字ヶ浦海水浴場)
(C比観亭跡へ)
 案内された比観亭跡からは、阿武隈の山は無理だったが阿字ヶ浦海水浴場から磯崎漁港が見渡せた。篠が視界の邪魔をして、幹事の人が「暑い日が続いて手が出せなかった」と謝っておられた。次のような案内板が立っていた。
      那珂湊市指定史跡・比観亭跡
     寛政2年(1790)11月、水戸藩第六代藩主徳川治保は、酒列磯前神社を訪れた際、見晴らしの良い小高い丘から眼前に大洋を一望し、北に白砂青松の海辺を隔てて、はるか阿武隈の産地をみることができる景色にとても感動した。そこで治保は、この高台に「日除け」(あずまや)を建てることとし、自身で九尺四面(約2.7m)の土地を画して建設を命じた。
     翌3年1月、、「比観亭」と名付けられた。。比観亭に掲げられていた扁額は、彰考館総裁立原翠軒が筆を取り、これを桜の板に彫刻したものである。現在、扁額は酒列磯前神社に保管されている。
       指定日 昭和43年1月16日
       設置者 ひたちなか市教育委員会
(C比観亭跡から)
 比観亭跡から引き返して、酒列磯前神社の大鳥居をくぐると参道の両脇には鬱蒼とした古木が立ち並んでいて、入口には樹叢の説明板が立っていた。
      茨城県指定天然記念物・酒列磯前神社の樹叢
     酒列磯前神社の創建は斉衡3年(856)であり、元禄15年(1702)に現在地に遷宮された。
     酒列磯前神社の境内林は、海洋による温暖な気候によって生育が促された暖帯性樹層の一つと位置づけられる。参道両側には、樹齢300年をこえるヤブツバキやタブの古木が点在し、さらに、オオバイボタ、スダジイ、ヒサカキなどの常緑広葉樹が生育している。また、本殿脇から背後に広がる境内林は、スダジイ、タブノキなどの高木層と、ユズリハ、モチノキ、ヤブツバキ、シロダモなどの亜高木層〜低木層で構成されている。
     このような規模で保存されている例は希であり、この地域における本来の自然植生の姿をとどめた自然林として貴重であるといえる。
      指定日 平成17年11月25日
      設置者 ひたちなか市教育委員会
(D酒烈磯前神社大鳥居)
(D磯前神社の樹叢)
 参道は300mと長く、途中、石ア漁港方向へ下る石段道に別れるところがあって、石段上で一休み。海からの涼しい風が気持ち良かった。会員外の私のところにも良く冷えた漬物などが廻ってきてありがたく頂戴した。
 その先に「水戸斉昭公のお腰かけ石」など見ながら拝殿前に入って、また、代表者の所作に合わせて参拝した。この神社は随分と社格の高い神社のようで、拝殿脇に大きな石で出来た立派な由来書が立っていたので、少し長いが転記しておきましょう。
       酒烈磯前神社 御由緒記
    主祭神 少彦名命(恵比寿さま)
    配祀神 大名持命(大国さま)
     少彦名命は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御子神にして高天原より天降り山野にして医薬の術、酒造の術の祖神また海上安全大漁万足の海の神なり。
     大名持命は大国主命とも称し五穀豊穣、商売繁昌の神にしてまた縁むすびの神なり。御二柱の神は共に力を合わせ国土開拓民生の安定を築き「神人和楽」福を授くる神にして古より広く庶民に親しまれ敬愛された。
     抑、御祭神は古事記・日本書紀にも記録明らかにして、平安朝初期(約1100年前)「文徳天皇菩薩明神」の尊号、延喜の制には「明神大社」に列せらる。
     天平文化を誇る奈良の平常宮との交流も盛んなりし事等、史実に顕著にして著名なるお社として全国的な尊崇をあつめり。
     更に菅原道真公、本居宣長、平田篤胤等の国学者が学問の神として崇敬せり。
     本神社の創祀の地は現在地の西方海に望みし台地に鎮座されており、建久2年(約900年前)源頼朝は神馬丗三頭神領地進社殿修繕を行へり。応永廿九年(約600年前)水戸城主初代江戸道房より次いで弘治元年(約430年前)忠道本殿其の他改造せり。
     天正8年(約405年前)六代重道に至る数百年間江戸氏が修繕に当れリ。
     元和2年(約370年前)守護佐竹貞義神田寄進社殿修理せり。元禄15年(約300年前)水戸藩主二代徳川光圀公の遺志を継承せる三代綱條公旧社 地より現在地にさだめ境内の整備社殿大修築をなし、御遷宮奉安の儀を行へり。
     現社殿の建築は元禄時の彫刻と軒廻り部分を再使用、昭和九年国費により改築せるものなり、この時畏くも天皇陛下より金一封御下賜あらせられたり。明治18年より終戦まで毎年三回の大祭に皇室国家より幣帛料が供進されたり、洋上より登る朝日に映ゆる神域約二万坪参道本殿背後に生殖せる暖帯林は誠に人心を厳粛の極みに至らしめ自然林に指定されたり、東南方磯づたいに展開せる白亜紀の岩石郡は古より神聖視され清浄石とよばれておれり。
     北方遠く連なる海辺は白砂青松にして絶景なり「東洋のナポリ」と称するに値せり。
    万葉時代より昭和初期まで旧制48ヶ村の各鎮守の神輿がそれぐの氏子により「ヤンサコラサ」の掛声も勇ましく当神社に神幸され祭典と同時に渚2里8丁を疾駆せる勇壮厳粛なる競馬の伝統御神事は往時を偲ぶものあり。
     恰も本年は当神社が「国幣中社」に列格せし満百年の意義深き年なり。来る21世紀国際化時代へ飛躍の秋、近隣一帯が北関東地域発展の重要な拠点となる流通港、常陸海辺公園等々「海と緑と人間との」調和した雄大にして豊かな活力のある海洋文化都市建設構想を目指す輝かしき曙光は、御祭神は国土開拓殖産の御神徳灼かなる具現哉と一入感慨深きもの也
(水戸斉昭公お腰かけの石)
(D酒烈磯前神社)
 酒列磯前神社から脇道に出て、公民館とホテルニュー白亜紀の間の道を10分も歩いて行くと、海面に洗濯岩が見えるようになってきた。
 磯崎の海岸近くで見てみると、洗濯岩は大体が右手(南)を向いて傾いているのに、一列だけ岩の傾きが左(北)を向いていて、この岩に「寄生岩(チキショウイワ)」という面白い名前が付けられているとのことだった。
(海岸へ向かって下り)
(E奇生岩:逆向き洗濯岩)
 「清浄石 徳川義公」の石碑が立つところで説明が始まった。
 ひたちなか市の平磯〜磯崎の洗濯岩が続く海岸一帯は、昔から神が降臨した「神磯」と呼ばれて神聖な場所とされており、近年この地層からアンモナイトやなどの化石が発見され、中世代白亜紀の地層として茨城県の天然記念物に指定されているとのこと。
(清浄石の石柱)
(E清浄石のある順向き洗濯岩)
 碑にある清浄石とは,洗濯岩の先端に見える四角い岩の事で、その形が護摩壇に似ているため護摩壇石と呼ばれていたものを、黄門様が清浄石と命名し、その後この「清浄石」が正式名称になった。那珂地方一円の村落が一堂に会して行なった「ヤンサマチ」と言うお祭りでは、各部落より神輿を海岸まで運び護摩壇石上に安置し祈願する儀式を行っていたとのこと。
 説明者のザックの中からは、塊の中にアンモナイトが入り込んで固まった化石とサンゴの欠片が出てきて説明に供された。
(E清浄石)
(Eアンモナイトとサンゴの化石)
 清浄石の先にも白亜紀層の洗濯岩が続いたが、広い砂浜が続くようになって、路側の広場に車を停めて海遊びに興じる家族などの姿が見られる様になった。
 堤防沿いの歩道を歩いて行くと、車道の右に芝生の平磯海浜公園に着いて、甘ーいアイスキャンデーが振る舞われて30分ほど休憩。
(F平磯海岸)
(F平磯海浜公園)
 平磯海浜公園の先には沖を堤防で囲まれた,波の穏かな平磯海水浴場があり、色とりどりのパラソルやテントが立ち並び大勢の海水浴客で賑わっていた。海水浴場の真ん中には真っ赤なクジラのようなものが浮かんでいたが、これはこの海水浴場のシンボルで、「くじらの大ちゃん」と呼ばれる海中滑り台だった。
 海と反対の住宅側には「茨城百景平磯海水浴場」の石柱が立ち、「大ちゃん通り」の看板も立っていた。
(Gくじらの大ちゃんのいる平磯海水浴場)
 海水浴場から右手の崖上にホテルを見上げながら15分も歩くと、プールのような物が見えてきた。これは「姥の懐マリンプール」という、全国でも珍しい、潮の干満を利用した海中プールで、海とつながっているので小魚などが泳いでいたりして、家族づれに人気のあるプールとのこと。
(Gしおさいくじら大ちゃんロード)
(H姥の懐マリンプール)
 マリンプールの先の駐車場のところに、「大ちゃんロード スタート・ゴール地点、平磯中学校入口3000m」の看板があり、ここから那珂湊漁港に下る階段があった。
 漁港の広い車道の脇の歩道を歩いて行くが、漁港の手前にはせりが行われるような長いがらんどうの建物があり、お日様を受けながら長い道のりだった。
(那珂湊漁港へ)
(広い漁港)
  途中に大きな鳥居があったが、奥に社殿は見えない。横にある由来記によれば、天満宮は水戸藩主も参拝したこともある大きな神社だったが、明治維新で村有になったり、戦後復興道路工事で狭められたりしたが、昭和57年今の埋立地に昔の面積を天満宮の飛び地として寄進され鳥居も立てられ、天満宮の八朔祭りの神輿の御旅所となったとのこと。
 八朔祭りは、天満宮の祭神が昔、海から出現したという伝説にもとづく浜降祭りで、 浜降りの厳粛な出輿還輿、海中の御輿もみ、荘重な笛と太鼓にあわせる獅子舞、ユーモラスなみろく踊り、華麗なひき屋台とはやしなど、見どころ満載のおまつりとのこと。
鳥居やその周りはには提灯が立てられ、臨時に門柱のようなものが作られていて、お祭り準備完了の様子だった。
 家族ずれが釣りをしている向かいの突堤にも竹ざさが立てられていたので、ここもお祭り場所のようなので、御神輿の浜入りが行われるところかな。
(那珂湊天満宮)
(浜入りの突堤?)
 湊通りの突き当りで一休みになったが、角に那珂湊市水産加工業協同組合の建物があってその入口にみなと八朔祭りのビラが貼ってあった。八朔祭りは今日8日の夕方から明日まで行われるらしい。
 協同組合の前から県道に出たところに、古い灯台みたいな形をした「那珂湊漁港」の標塔が立っていて、その脇が広場になっていて、ここで整理運動、会長挨拶があって解散になった。
(八朔祭りのビラ)
(I那珂湊漁港門灯?)
 皆さんと別れてから、関東を代表する観光地であるおさかな市場を歩き、その端にあった食堂に入って、「弁当を持って来なくて良かったね」と言いながら新鮮な魚料理の昼食をいただきました。
(Iおさかな市場)
(海鮮丼)
 ビラではお祭りは夕方からとなっていたが、食堂の人の話では「朝から神輿が街を歩いていますよ」とのことだったので、那珂湊駅に向かう途中、神輿が歩いていそうな通りを探しながら歩いて行くことにした。「12時頃は御神輿もお昼休みでしょう」と話もあったので、おさかな市場の中を物色しながら時間を潰してから街に出ると、どこからかお囃子の声が聞こえてきた。声の方向に歩いて行くと七丁目の山車がいて、綺麗なお嬢さんが入れ替わりながら賑やかに踊ったり唄ったりしていた。
 一しきり演技が終わると、次の場所に移動するのに威勢のいい男衆がエイヤ、エイヤと掛け声勇ましく、山車を引いて行った。
(七丁目御神輿)
(エッサー! エッサー!)
 みなと祭りの一部も見ることができたと今日は大満足、ゆっくり歩いて那珂湊駅に着くと、丁度プラットフォームに気動車が着いたところだった。帰りの切符を慣れない自動機で買うのに戸惑ったが、何とか乗り込むことができた。
 帰りの車窓からもう一度広い芋畑を見たいと思ったが、那珂湊駅から勝田駅側には芋畑はなかった。稲の田圃の景色で湊線を楽しんで帰ってきました。
(J那珂湊駅)
(ワンマン気動車)
 阿字ヶ浦ウオークの次の夜、「銅盃が咲いているよ」と和子に言われて、翌朝裏庭に出てみると、先日奥久慈男体山登山の時に大円地山荘で頂いた銅盃の株が2輪花開いていた。その次の日には3輪になっていた。
(銅盃の花が咲きました!)
(翌日は三輪!)
 

inserted by FC2 system