E93.熱海での兄弟会

1. 動 機
 広島県久井村を出自とする川本家の5兄弟は全国に散らばっていて、これまで何回か兄弟会を開いて顔合わせをしてきたが、今回は去年3月の兄弟会以来長姉が逝去して4兄弟での会合になったが、3夫人も合わせて7人が集まってお互いの健康を喜び合った。何時ものように自分では事前の調査は何もしないで出かけたが、幹事役の三男の綿密な計画のもと熱海の宿に連泊して、熱海海岸散策、箱根観光、MOA美術館と回って充実した楽しい時間を過ごすことができた。

2.データ
a)山域:熱海、箱根
b)登山日:2017/9/15(金)〜17日(日)
c)コースタイム:
    1日目
    自宅11:25 = 11:30大甕駅BS11:56 = 12:10勝田駅12:21 =ひたち号 (昼食)= 13:42東京駅13:56 = 14:44熱海駅15:10 = 15:30ホテル15:50 ---- 熱海海岸散歩 ---- 16:45ホテル(泊)
    2日目
    ホテル8:40 =(ジャンボタクシ)= 9:10展望台9:15 = 9:30芦ノ湖桟橋9:35 = 10:10大涌谷10:15 = 10:25ビジタセンタ見学11:00 = 11:30寄木細工見学12:05 = 12:55仙石原 = 13:30富士屋ホテル(昼食:散策)14:30 = 15:25来宮駅15:35 = 15:40大湯間歇泉 = 熱海海岸 =(ジャンボタクシ)= 15:45ホテル(泊)
    3日目
    ホテル9:35 = 9:40熱海駅コインロッカー9:45 = 9:50MOA美術館(昼食)12:40 = 12:50熱海駅13:59 = 14:49東京駅15:53 = 17:21大甕駅17:30 = 17:35自宅
(熱海観光ポイント)
d)同行者:3兄弟2夫人、和子

3.山行記録
3.1一日目
 熱海まで出かけるのは久しぶりだったが、電車の都合も幹事さんが調べてくれていて、その計画に従って早々に指定席を買って準備万端OK。運転免許証を返納した高齢者への支援として貰っていたタクシー券を使って大甕駅までらくちん。大甕駅から普通電車、勝田駅で特急ひたち号に乗り変えて東京駅まで。途中、筑波山の双耳峰が綺麗に見えていた。
(筑波山)
(東京駅)
 慣れない東京駅で迷いながら新幹線改札口に辿りつき、熱海まで指定のこだま号に乗り込んでいくと、我が夫婦の席のすぐ後ろの席に三男夫婦が笑顔で座っていた。相談したわけでもないのに、指定席がすぐ前後とは全くの偶然、こんなあり得ないような偶然を幸先良いとお互いに喜び合った。
 途中、藤沢市辺りから新婚旅行の時に登った大山が見えてきたが、大山が含まれる連山の名前の方が有名なのだが二人ともどうしても思い出せない。後の二人に訊いているうちにやっと丹沢の名前を思い出した。
 小田原市辺りからも目立つ山が見えていて登ったことがありそうだったが、山の名前は判らないまま。
(丹沢大山)
(小田原辺りから)
 熱海駅に到着、3男夫婦に着いて歩けばいいので気楽になった。
 新幹線改札口でしばらく待つと、大阪からの長男と末弟4男が出てきた。末弟夫人は仕事が忙しくて今夜深夜に到着とのこと、6人で今夜の宿KKRホテル熱海に向かって歩いていくことになった。以前は杖を突いていた3男は元気そのものの歩き方、長兄は小股だが足速、杖を突いてヨタヨタしているのは私一人、荷物を和子一人に持ってもらって一生懸命ついていく。
(熱海駅到着)
(一向揃って)
 駅前からアーケード付の仲見世通りに入っていったが、その先何カ所もわかれがあったが、下調べが完全な幹事さんは迷うことなく狭い道、広い道を歩いていく。
 海沿いの道になると、目の前に初島、その右にぼんやりと伊豆大島が見えてきた。
(アーケード街通って)
(初島と伊豆大島)
 その先がトンネルになり、トンネルを通ると目の前にいKKRホテルの建物が見えてきた。そのままホテルに入れるのかと思ったらここは駐車場専用入口、歩行者入口は広い車道沿いを一回りしたホテルの正面にあった。
(トンネル潜って)
(ホテル下)
 ホテルに着くと「30分後に出発して熱海の海岸を散歩しよう」と幹事さんの掛け声、ホテルが決めた部屋割に従って鍵を受け取って部屋に入って、窓の外を眺めると眼下に相模湾が一望のもとに見渡せたが、さっきまでうっすらと見えていた伊豆大島は完全に霞んでしまっていた。
(部屋から相模湾)
 見所のお宮の松が立つところまで歩くと、昔のお宮の松は枯れたようで切り株が屋根に守られて飾ってあり、すぐ隣に当代のお宮の松が植えてあった。近くの説明板には、
       ●「お宮の松の由来」
     お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものです。この松は、江戸時代前期(1645年頃)、智恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれております。
    この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の松」とも呼ばれていました。
     明治30(1897)年から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたのです。このことから、大正8(1919)年熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立されました。
     この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となりました。
      また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めています。
     昭和24(1949)年、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだした。(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約2メートルの場所にありました)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めました。
     その結果、50数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏により寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大な協力により、昭和41(1966)年現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものです。
    「お宮の松」の樹齢は、平成13(2001)年現在でおよそ95年、添松はおよそ75年になります。
(初代お宮の松の切り株)
(二代目お宮の松)
 すぐ近くに今度は貫一がお宮を足蹴にする「貫一お宮之像」が立っていて、その前で三男夫婦がそれを真似た見事な演技を見せてみんなの拍手を受けた。私も真似て和子を足蹴にしてみたかったが和子に断られた。近くの説明板には
    ●金色夜叉と熱海
     明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説 金色夜叉は、明治30年1月1日から5年半に亘り読売新聞に連載されたちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こしました。
     ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮(しぎさわみや)がカルタ会の席で、銀行家の息子富山唯継(ただつぐ)に見染めらることから始まります。宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者・間貫一(はざまかんいち)がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知で富山の求婚を受け入れたことから繰り広げられる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌
      熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ
      共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り
    が広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになりました。今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に「金色夜叉」が大きなきっかけになったのは言うまでもありません。
     金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから、月が----月が----曇ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思ってくれ」の名台詞と共に、歳月の移り変わりのもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくことでしょう。
     紅葉は、37歳の若さで死去し、金色夜叉はついに未完に終わってしまいましたが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに、紅葉の高弟であった小栗風葉(おぐりふよう)によって完成されたのであります。
     熱海市では毎年1月17日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われます。
     貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に、昭和61年1月17日熱海市に寄贈したものであります。
 砂浜沿いの展望台に上がって一休みしながら、相模湾の海原と砂浜の熱海の海岸をゆっくりと眺めた。ホテルへの帰りの話になり、みんな歩いて帰ろうと言ったが、幹事役の三男は私と長男の歩き方に気を遣って「タクシ乗場とバス乗場を調べてみる」と言って車道の方に歩いていった。私も歩いて帰りたくて車道側に出て三男に合図を送った積りだが、伝わったかどうか車道を歩いていった。
(貫一お宮像)
(熱海海岸)
 歩いていけば交差点で会えるだろうと、みんな遊歩道を歩き始め、私と末弟とは途中砂浜に下りて海水浴場を少し歩いてみた。
 交差点に戻って予想通り3男が待っていて、ここから6人そろってホテルに向かってガヤガヤ言いながらホテルに歩いて帰った。
(海水浴場を歩いて)
(来た道を戻る)
 最上階の展望風呂でゆっくりと汗を流して、食事会場のレストランに入った。今夜のテーブルに並んでいるのは和食の宴会食で、松茸入りの釜飯や天ぷら、刺身など美味しそう。お品書きには9品も出てくることになっている。先ずは乾杯、私は日本酒を頼んだら、最初のコップには山盛りのお酒が注がれていた。こんな物理法則にも反するような芸当をどうしたらできたの?!
 食事前に幹事さんから各人にランニングウオータのペットボトルが配られた。駅伝名門校の広島県世羅高が土地の梨農家などと共同開発したスポーツドリンクとのことで、梨の甘味いっぱいのさらっとした(世羅っとした)味の良いドリンクだった。みんな世羅高の卒業生、母校を思いながら味わった。銀座にあるアンテナショップで買って来たとのことだったが、こんな重いものまで運んできてくれた幹事さんに頭が下がる。
(銘酒の山盛り!)
(世羅高の健康飲料)
 積もる話に花を咲かせながら飲み食いして盛り上がったところで、長男がいつもの踊りを始めて拍手喝采。部屋の端から面白そうに見ている賄さんの方に近付いていき、こちらにも踊りのサービスを怠らなかった。娘の結婚式の時も披露してくれたっけ。
 制限時間になって食事を終え、幹事さんの部屋に集まって、2次会で思い出話に花を咲かせていた時、末弟夫人が入ってきて「遅くなりました」と御挨拶、お仕事ご苦労さまでした。
(名演技)
(賄さんにもお礼の踊り)
 
2日目へ
 今日は朝からジャンボタクシに乗って一日中箱根観光をする予定になっていた。実際の行程は運転手さんの好意もあって次のようになった。
    熱海ホテル8:35 = 9:00十国峠 = 9:10箱根峠 = 9:10展望所9:15 = 9:20箱根峠 = 9:30海賊船9:35 = 10:10大湧谷10:15 = 10:25ビジタセンタ11:00 = 11:30浜松屋12:00 = 12:25箱根湯本 = 12:40宮ノ下 = 12:55仙石すすき原 = 13:20宮ノ下富士屋ホテル(昼食)14:30 = 14:50杉並木 = 15:10十石峠 = 15:25菓子の木15:30 = 16:00熱海ホテル(泊)
(熱海観光ポイント)
 翌朝はホテルのビュッフェ、私はいつものように和食だったが、前の席の長兄の御膳を見たらクロワッサンなど洋食がが並んでいる。この方が美味しそう。
(私の朝食)
(兄の朝食)
 朝食を終えて下を見ると、タクシはもう玄関前に来て待機していた。 身支度を整えてタクシに乗り込むと「おはようございます」と笑顔の御挨拶、感じのいい運転手さんだった。
 発車すると、熱海市街を走っている時から色々と話をしてくれる。ガイドさんを兼ねた運転手さんだった。
(ジャンボタクシ)
(熱海市街)
 熱海梅園入口、伊豆スカイラインなど通って一路箱根に向かって走っていくが、運転手さんはおしゃべりしながらも全く危なげを感じさせない運転、景色を見、説明を聞きながら気持良いドライブ。
(熱海梅園入口)
(伊豆スカイライン下)
 十国峠を過ぎたところに展望所があったがガスっていて何も見えず、運転手さん「天気の良い日はいい景色が見えるんですがねえ」と残念そう。
(十石峠ケーブルカーレストハウス)
(展望所)
(富士山見えず)
 標高846mの箱根峠から、今までの県道20号から国道1号線になった。
 箱根峠交差点からすぐのところに石畳の細い道があり、これが昔の東海道で大名行列もここを通ったとのこと。殿様を載せた駕籠を守って大勢の家来たちが連なってこんな狭い坂道を歩くのは大変なことだったろうな。
(箱根峠標高846m)
(旧東海道石畳)
 一号線は道の駅「箱根峠」を過ぎたあたりで急に大きくUターンして芦ノ湖の南岸に向かう。するとタクシが角を芦ノ湖方向に曲ると「東京箱根間往復大学駅伝復路スタート地点」の道標が立っていて、先に「箱根駅伝ミュージアム」の建物が建っていた。毎年お正月には箱根駅伝のテレビ放送にくぎ付けになる。世羅高校の出身者が走ると特に熱が入る。
 年末に行われる全国高校駅伝のことを知っているか運転手さんに訊いたがご存じなかった。京都で行われる高校駅伝はこの辺りでは余り話題に登らないようだった。「広島県の世羅高は全国高校駅伝大会で何回も優勝したことのある駅伝名門校で、この4人兄弟はみんなこの世羅高の出身なんです。」と自慢がてら紹介しておいた。
(箱根駅伝復路スタート地点)
(箱根駅伝ミュージアム)
 駐車場にタクシを停めて、歩いていくと桟橋に2艘の海賊船が停まっていた。運転手さんが色々説明してくれたが、岸沿いの向こうに見える普通のクルーズ船には乗ったことがあるが、豪華な海賊船には乗ったことがない。
(海賊船)
(運転手さん)
 芦ノ湖展望を楽しんでから国道1号に戻って北に向かうとすぐに「箱根関所跡」、続いて箱根神社の大鳥居。
(箱根関所跡入口)
(箱根神社鳥居)
 その先で国道1号は山の手に向かい、タクシは湖沿いの県道75に別れて桃源台近くまで走り、今日の悪天候ではロープウエーも動かないと山の手へ向かって大涌谷まで入ってくれた。傘をさして大涌谷を歩くわけにもいかず、極楽茶屋前の大涌谷の標石前で記念写真を撮ってお土産屋を覗いただけで引返すことになった。傘はみんな持参していたが、運転手さんが用意していた傘をみんなに貸してくれた。タクシが大涌谷を出る時に、幹事夫人が大湧谷名物の黒卵をみんなに配ってくれた。車に揺られながら、卵を頭に打ちつけががら殻を破って頂戴したが、何ともいい味の美味しい茹卵だった。
(ロープウエーが見える県道75)
(雨の大涌谷)
 県道75まで下って湖畔の湖尻ターミナルやロープウエー駅を通って箱根ビジタセンタの駐車場に入った。
(箱根ロープウエー桃源駅)
(箱根ビジターセンタ)
 ビジタセンタでは箱根の自然と題したビデオを見たり、箱根山の立体模型を見ながら以前歩いたコースを確認したり、65万年前から始まった箱根火山の勉強をしたりして30分間楽しんだ。
(箱根の紹介ビデオ)
(箱根地形立体模型)
 「次は寄せ木細工の実演を見ます」と言って、ビジタセンタから県道75号で湖岸沿いを延々と引返し、畑宿入口から旧東海道(県道732)で山の中に向かい、お玉ヶ池や石畳道を眺めしたりしながら上っていくと七曲りの道標があり、急カーブが12回続いたが、運転手さん慣れた運転さばきで平気な顔で乗り切った。
(お玉ヶ池)
(箱根七曲り)
 七曲りを過ぎると間もなく畑宿に着き、「寄木細工見える工場」の看板を掲げる町工場浜松屋があった。浜松屋の前のバス停の標識に「本陣跡」とあり、道向かいに「本陣跡」の説明板があったので写真だけ撮っておいた。内容は
     畑宿の本陣は屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡です。家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。小規模ながら旧街道に日本庭園として他に無かったようです。
    畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落で、郷土の伝統工芸「箱根細工」が生まれ育ったところです。
    畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。
    江戸時代畑宿は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足を止めました。
    安政4年(1857)11月26日、米国初代領事で伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここに休憩鑑賞しました。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
    下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受ける際、ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否して関所側とトラブルを起こしてしまいます。
    下田の副奉行が中に入って、ハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることを提案し、関所側は妥協しました。
    ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通り、そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。
      明治天皇
    明治元年十月八日明治天皇が東京遷都の御途次や翌年皇后の京都還幸の御途次等で小休ならせらした聖跡です
 ついでに浜松屋の宣伝文句
      寄木細工見える工場浜松屋
    箱根の畑宿で伝統を継承して二百有余年。
    天然木材の豊かな色彩と木目を活かしながら寄せ合わせ、精微な幾何学文様を作りだす箱根寄木細工。そしてミシン鋸で精巧に挽き抜き、絵画や図案を嵌め込んで表現する箱根木象嵌。全国に残る数少ない伝統工芸士が、匠の技と心を込めて浜松屋独自の製品をお作りしています。
 案内された部屋に入ると、職人さん(失礼名工さん)はでんと座って細い木切れを手に持って「これから木象嵌を造ります」といって説明と作業を始めた。材料は色合いによって、いちい、まゆみ、えんじゅ、くわのき、など色々な木を使うとのこと。5角形に切りだされた色々な色をした細長い木片を巧みに束ね貼りあわせて綺麗な幾何学模様の角棒を作り上げた。実際はこの角棒を更に組み合わせて更に複雑な模様の大きな角棒を作り上げ、この塊を大型のカンナで薄い紙のように削り出す。
(本陣跡)
(木象嵌原板製作の実演)
 出来上がったサンプルをみんな手に持って味わうことができ、浜松屋のパンフと一緒に寄せ木細工の栞を各人に配布された。
 店の方には寄せ木細工の帯や草履、木象嵌の箪笥や菓子器など]いろいろ見事な製品が並んでいた。思い出にみんなそれぞれコースターやお皿、夫婦箸、箸置きなどを買っていた。
(寄せ木細工の紙片)
(寄せ木細工の帯や草履)
 板材から職人さんが手にしていた細木を切りだしたり、作り上げた細木細工の塊から紙状に削り出す機械が使われていた。
(板材から細木に切りだす)
(寄せ木細工の塊から紙を削り出す)
 浜松屋を出て旧東海道を先に進むと急カーブの角に大きな鳥居が立っていて「大天狗山」の献額が掛かっていた。
 須雲川を渡って対岸側をどんどん進むと早川を渡って国道一号に合流、左の北に曲がると箱根湯本の街に入り「はつ花本店」の看板がかかる古びた店があり、長い行列が出来ていた。ここは水を一切使わず、そば粉、自然薯、卵だけで作る自然薯蕎麦で人気なのだという。
(大天狗山神社)
(箱根湯本はつ花本店)
 湯本から更に西に走って早川を渡ると対岸に函嶺洞門の古びた外郭が見えてきた。今はトンネルは通行止めになっていて、箱根駅伝もこちらのバイパス道を走っている。
 更に早川沿いを西走、大平大温泉を過ぎると宮の下の温泉街に入り、目の前に昼食を予約してある富士屋ホテルが見えてきた。運転手さんは予約時間にまだ1時間近くあるから仙石原のすすき原を見に行きましょうと言ってそのまま北上、宮の下から国道1号は左に曲がって芦ノ湖畔の元箱根に向かうので、早川沿いの道は国道138箱根裏街道になる。
(函嶺洞門)
(ホテル下に着いたが)
 仙石原の街中の交差点で国道から左の県道75に曲がって仙石原の広いすすきの原を眺めながら一回りして宮の下に引き返してホテルに入った。
(国道138西走)
(仙石原すすきが原)
 みんな揃って幹事さんお奨めの富士屋ホテルの名物カレーライスを賞味した。良く煮込んである様で確かに深い味わいがするように思ったが、いつものファミレスの2〜3倍の味がするかどうか私の舌では判らなかった。それでも久しぶりの兄弟と一緒の食事はいう事なし、高いところからサーバで水を注いでくれる賄さんの行儀のいい作法も気持ちいい。
(名物カレーライス)
(いところから給水)
 レストランの部屋は天井が高く解放感十分、それぞれの柱に取付けてある鬼の様な面は初代館長が自ら作らせた魔除けの飾り物らしい。場所代を払ってもよさそう。
(広い部屋い天井)
(柱に守り神)
 昼食が終わってタクシの出発時間までホテルの庭をお散歩した。西洋の様式を取り入れた白い木造の西洋館COMFYLODGE、赤い柱が目立つ竜宮城の様な大きな中国風の花御殿が目を惹いた。
(西洋館)
(花御殿)
 帰りは宮の下から芦ノ湖方向の国道1号を走ると、小涌谷、芦之湯を過ぎたところに国道1号最高地点874mの標識があった。
 最高点から芦ノ湖近くまで下ると石畳みの道が見え、箱根峠で見たとは違うように見えた。
(国道1号最高地点 874m)
(旧東海道石畳)
 芦の湖湖畔を杉並木が見えてきた。左側を通る遊歩道を二人で歩いた覚えがある。
 運転手さんから「どこか途中で立ち寄りたいところはありませんか」末弟夫人が菓子の木でダクワーズのお土産を買いたいとお願いし、来宮駅前の駐車場に入った。
(杉並木)
(来宮駅)
 菓子の木は大きな店ではなかったが、店内に入るとガラスケースに高級そうな洋菓子が色々と並んでいた。ダクワースは足利イルミネーションの時食して以来大麦工房から時々送ってもらっているので我家は止めにして来宮駅の中に入って見学、近くに来宮神社という古刹がある様だったが、ここまで入るのは無理そう。
 来宮駅から熱海海岸に向かう途中の大湯間歇泉を案内して詳しい説明をしてくれた。
     「大湯間歇泉」は、古くからの世界的にも有名な間歇泉で、激しい勢いで湯気を吹き出して、地面が揺れるほどだったそうです。 明治中頃から次第に減少し大正終りには完全に止まってしまい、昭和37年から市の文化財として保存されています。
 「史跡 大湯間歇泉跡」の碑の後上に「オールコックの碑、愛犬トビーの墓」の名板があってその前に二つの碑が立っていた。
    オールコックはイギリスの初代駐日大使で、富士登山の途中熱海を訪れた際、愛犬トビーが大湯の熱湯に触れて死んでしまったとき、地元の人たちがトビーを手厚く葬ったことにに感激し、イギリスに帰国後このことを紹介したので、イギリス人の日本人に対する見方が変わったそうです。
この後、タクシは熱海海岸にも回って貫一お宮像など見せてくれたが、親切な運転手さんに「昨日見に来ました」とはだれも言いだせなかった。
(菓子の木)
(大湯間歇泉跡)
 定刻の16時にホテルに到着し、親切だった運転手さんにお礼を言ってお別れし、展望風呂で汗を流してレストランへ。夕食は中華の宴会コース、5皿の前菜に続いてロブスターやサーロインステーキなど品数も多くて絶品、生ビールも美味しかった。
(ホテルで夕食:献立書と前菜)
 
日目へ
 三日目は熱海のMOA美術館での芸術鑑賞。美術も三男の得意とする所、先輩の建築家が設計した美術館で自分でも満足な出来だったと推奨しておられたとのこと。
 熱海駅のロッカーに大きな荷物を預けてタクシに乗って10分ほどの高台にあり、駐車場から見ると、玄関だけが大きく目立って後はすぐ山でそれほど大きな美術館には見えなかった。
(熱海駅に荷物を預けて)
(MOA美術館)
 ところが中に入って驚いた。玄関を入ってチケット売り場を過ぎるとすぐに大きく長いエスカレータがあった。
(MOA美術館入口)
(最初のエスカレータ)
 その上にもエスカレータがあり、脇が明るい照明に照らされ、その照明も時々刻々色を変える。3段目にも同じようなエスカレータがあって、上った先に丸い明るい空色に輝く天井が見えた。
(二つ目のエスカレータ)
(三つ目のエスカレータ)
 上がってみるとそこは丸い円形部屋で、天井の照明は微妙な音楽と共に色合いが変わり回転している。床の万華鏡が作りだす刻々変化する映像をそのまま天井に投影しているらしい。
 美しい円天井の下で記念写真をパチリ。
(三階の円天井)
(三階広場で記念写真)
 その上でもエスカレータに2回乗って、出たところにお庭があったり、後から写真を見直しても、どれが何階で撮った写真なのか判らなくなっている。
(またエスカレータ)
(最後のエスカレータ)
 多分三階と五階のガラス張の展望室があったように思うのだが、一枚は強い風に大きく揺れる竹林、建物の中にいて良かったなあと思って多分三階から撮ったもの。
 もう一枚は多分五階から熱海市街と相模湾を撮ったもの、すぐ下に見える彫刻が飾られた石造りの広場は入口からは見えなかったので三階の前庭かも。ここは山の上に立つビルの窓だが山の上の奥に建っているので一階の駐車場などは何も見えず、当然下からも見えなかったわけだ。
(外は強い風)
(熱海の街と相模湾)
 四階エスカレータを下りたロビーの先に広い和室に囲まれた茶室があった。茶道に反するような金ぴかに輝く派手な茶室で、美術館のHPによると
     天正14年(1586)正月、豊臣秀吉が時の天皇、正親町天皇に茶を献じるために、京都御所内の小御所に組立式の黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶会を行ったという史実に基づいて復元制作したものです。秀吉は、この黄金の茶室を、天正15年の北野茶会に用い、天正20年には朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣した折、大阪より運ばせ茶の湯を行ったことが知られ、大阪城落城とともに消滅したと考えられています。黄金の世とも呼ばれた絢爛豪華さと、閑寂な侘数寄という対照的な諸相を見せる桃山時代の美意識を再見ください。
 その横には屋根もついた能楽堂があり、前には座席も並んでいるので実際の能舞台が行われることもあるらしい。HPには
    優れた伝統芸能を紹介する目的で設置したものです。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)の入母屋(いりもや)造、舞台は総檜造りで、鏡板は日本画家・松野秀世氏が描いたものです。観世、宝生、金春、喜多の諸流による定期的な演能会を開催しています。目付柱、ワキ柱は脱着可能で、音楽会や美術講座等の講演会など多目的に活用できます。同時通訳の設備もあり、国際会議にも利用できるように設計されています。
(茶室)
(能舞台)
 五階の展示室では岡田茂吉賞展が開かれていたが、素晴らしい作品も撮影禁止で紹介できない。同じ階に国宝級の仏像や壺などが展示されていたので、写真だけ紹介しましょう。
(阿弥陀如来及両脇侍坐像)
(北方天眷属像)

(山水図巻)

(蝶幸風流陣図屏風)

(芭蕉翁像)
(松下煎茶図)

(仁清 色絵藤花文茶壺)
(岡田茂吉行書軸)
 三階にお店があり、素晴らしい作品が並んでいたが、どれも高価で貧乏性の私には手が出ない。丸顔が可愛い巻物を釣り上げる小さな人形が\64,800.
(売店)
(釣り人人形:蓬莱\64,800)
 竹製の箸2膳が\13,400.これを使っては怖くて食事の味がしそうにない。
 3階には全国児童作品展の児童画の展示もあり、今の子供は芸術的な絵を描くもんだと感じ入った。
(煤竹箸\13,400)
(児童画)

 三階の裏から外に出られて、そこは広い日本庭園になっているようだった。小雨模様だったので、出口に置いてあった傘を借りてさし、石段と木の門を2度通ると、古い長屋の様な建物が建っていた。
(裏は庭園)
(長屋?)
 長屋の一番奥が「そばの坊」というそば屋で、ここで昼食タイムになった。出てきたざるそばは歯ごたえが良くて美味しかった。
(端にそばの坊)
(客神社の祓殿)
 そばの坊の手前は光琳屋敷の案内板があったので中に入って座敷や台所など見てから外を一回りした。HPには
    尾形光琳が自ら描いた図面と大工の仕様帖、茶室起し図が含まれる小西家文書と呼ばれる資料(重文)に基づき、数寄屋建築研究の権威、堀口捨巳博士の監修により復元した屋敷です。光琳は、正徳2年(1712)頃に京都の新町通り二条下ルの地に屋敷を建て、最晩年の5年間を過ごし、2階の絵所(アトリエ)で光琳晩年の最高傑作、国宝「紅白梅図屏風」を描いたと考えられています。
    間口7間半、奥行13間ほどの敷地に、建坪約90坪の数寄屋造で、江戸時代の町屋建築を伝える貴重な資料です。
    屋敷内には5畳半と3畳の茶室が設けられています。3畳の茶室は、光琳の号「青々」にちなんで「青々庵」と名付けられ、扁額は日本画家・奥村土牛氏によるものです。
(隣は光琳屋敷)
(光琳屋敷台所)
 そばの坊の前から広い庭園を回る遊歩道があり、その奥に瀟洒な造りの建物があり、一白庵という茶室だった。
(広い庭園)
(茶室 一白庵)
 縁側に座って庭の松の銘木を眺めるのは気持ちがいい。
(庭の名木)
(一白庵で記念写真)
 営業中の茶室には入らないでそのまま遊歩道を進み、片桐門と言う門を潜って石段を降りると、先ほどの長屋の前に戻った。
(片桐門)
(遊歩道)
 右に曲がると樵亭という藁ぶきの茶室が建っていた。非公開らしいがHPには
    備前池田藩の筆頭家老、伊木忠澄(1818〜1886)は、晩年三猿斎と号し、茶の湯三昧の余生を送り、岡山の荒手屋敷には20に余る茶室が設けられていました。この茶室は、そのうち「大爐の間」と呼ばれた茶席を移築したものです。「樵亭」の名称は、この茶室の襖絵に、当館が所蔵する「樵蒔絵硯箱」伝 本阿弥光悦(重文)の蓋表にある樵夫と同様の図案が描かれていることにちなんで名付けられました。
 樵亭前を過ぎると竹林の傍を通る舗装道に出た。竹林の向こうには美術館の建物が見えたので、先ほど歩いた道なのだろう。先導者について歩くだけなので覚えていない。
(樵亭)
(下の道に出て)
 竹林の中に道があり、脇に茶畑もあって普通の山里の思われ、この道まで入館料無しで入れそうだ。
 竹林の後に美術館への石段があって、入口で傘を返して無事美術館に戻った。
(下のタ竹藪にも道)
(美術館に上る)
 展望室から外を眺めて写真を撮ったが、5階から撮ったのとは微妙に違う。
 エスカレータに乗って下りたが、最後の階だけ階段を歩いて下りて見たが、何とか歩けてみんなに迷惑かけないでよかった。
(もう一度展望室から)
(エスカレータで下って外に出る)
 美術館を出てタクシーに乗って熱海の街を眺めながら熱海駅に着いた。駅前には足湯があって満員の盛況だった。
(熱海の街中)
(熱海駅前)
 ロッカーから荷物を出して待合室でしばし歓談。新幹線が先に出発する大阪の3人を見送り、その後で新幹線乗り場まで3男夫婦に案内してもらった。今度は指定席が近くではなかったのでここでお礼を言ってさようなら。
(待合室)
(新幹線乗り場へ)
 東京駅で1時間近く時間があったが、兄弟会で十分に楽しい思いをしたので、東京駅周りを歩くことなく待合室でゆっくりして大甕駅まで直通のひたち号に乗って帰ってきた。大甕駅に着いた時小雨が降っていて、またタクシー券で我が家まで帰ってきた。良い旅でした。


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