E93.熱海での兄弟会
1. 動 機
a)山域:熱海、箱根広島県久井村を出自とする川本家の5兄弟は全国に散らばっていて、これまで何回か兄弟会を開いて顔合わせをしてきたが、今回は去年3月の兄弟会以来長姉が逝去して4兄弟での会合になったが、3夫人も合わせて7人が集まってお互いの健康を喜び合った。何時ものように自分では事前の調査は何もしないで出かけたが、幹事役の三男の綿密な計画のもと熱海の宿に連泊して、熱海海岸散策、箱根観光、MOA美術館と回って充実した楽しい時間を過ごすことができた。 2.データ b)登山日:2017/9/15(金)〜17日(日) c)コースタイム:
自宅11:25 = 11:30大甕駅BS11:56 = 12:10勝田駅12:21 =ひたち号 (昼食)= 13:42東京駅13:56 = 14:44熱海駅15:10 = 15:30ホテル15:50 ---- 熱海海岸散歩 ---- 16:45ホテル(泊) 2日目 ホテル8:40 =(ジャンボタクシ)= 9:10展望台9:15 = 9:30芦ノ湖桟橋9:35 = 10:10大涌谷10:15 = 10:25ビジタセンタ見学11:00 = 11:30寄木細工見学12:05 = 12:55仙石原 = 13:30富士屋ホテル(昼食:散策)14:30 = 15:25来宮駅15:35 = 15:40大湯間歇泉 = 熱海海岸 =(ジャンボタクシ)= 15:45ホテル(泊) 3日目 ホテル9:35 = 9:40熱海駅コインロッカー9:45 = 9:50MOA美術館(昼食)12:40 = 12:50熱海駅13:59 = 14:49東京駅15:53 = 17:21大甕駅17:30 = 17:35自宅
3.山行記録 3.1一日目 熱海まで出かけるのは久しぶりだったが、電車の都合も幹事さんが調べてくれていて、その計画に従って早々に指定席を買って準備万端OK。運転免許証を返納した高齢者への支援として貰っていたタクシー券を使って大甕駅までらくちん。大甕駅から普通電車、勝田駅で特急ひたち号に乗り変えて東京駅まで。途中、筑波山の双耳峰が綺麗に見えていた。
途中、藤沢市辺りから新婚旅行の時に登った大山が見えてきたが、大山が含まれる連山の名前の方が有名なのだが二人ともどうしても思い出せない。後の二人に訊いているうちにやっと丹沢の名前を思い出した。 小田原市辺りからも目立つ山が見えていて登ったことがありそうだったが、山の名前は判らないまま。
新幹線改札口でしばらく待つと、大阪からの長男と末弟4男が出てきた。末弟夫人は仕事が忙しくて今夜深夜に到着とのこと、6人で今夜の宿KKRホテル熱海に向かって歩いていくことになった。以前は杖を突いていた3男は元気そのものの歩き方、長兄は小股だが足速、杖を突いてヨタヨタしているのは私一人、荷物を和子一人に持ってもらって一生懸命ついていく。
海沿いの道になると、目の前に初島、その右にぼんやりと伊豆大島が見えてきた。
●「お宮の松の由来」
お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものです。この松は、江戸時代前期(1645年頃)、智恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれております。 この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の松」とも呼ばれていました。 明治30(1897)年から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたのです。このことから、大正8(1919)年熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立されました。 この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となりました。 また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めています。 昭和24(1949)年、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだした。(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約2メートルの場所にありました)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めました。 その結果、50数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏により寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大な協力により、昭和41(1966)年現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものです。 「お宮の松」の樹齢は、平成13(2001)年現在でおよそ95年、添松はおよそ75年になります。
●金色夜叉と熱海
明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説 金色夜叉は、明治30年1月1日から5年半に亘り読売新聞に連載されたちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こしました。 ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮(しぎさわみや)がカルタ会の席で、銀行家の息子富山唯継(ただつぐ)に見染めらることから始まります。宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者・間貫一(はざまかんいち)がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知で富山の求婚を受け入れたことから繰り広げられる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌 熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り が広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになりました。今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に「金色夜叉」が大きなきっかけになったのは言うまでもありません。 金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから、月が----月が----曇ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思ってくれ」の名台詞と共に、歳月の移り変わりのもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくことでしょう。 紅葉は、37歳の若さで死去し、金色夜叉はついに未完に終わってしまいましたが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに、紅葉の高弟であった小栗風葉(おぐりふよう)によって完成されたのであります。 熱海市では毎年1月17日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われます。 貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に、昭和61年1月17日熱海市に寄贈したものであります。 砂浜沿いの展望台に上がって一休みしながら、相模湾の海原と砂浜の熱海の海岸をゆっくりと眺めた。ホテルへの帰りの話になり、みんな歩いて帰ろうと言ったが、幹事役の三男は私と長男の歩き方に気を遣って「タクシ乗場とバス乗場を調べてみる」と言って車道の方に歩いていった。私も歩いて帰りたくて車道側に出て三男に合図を送った積りだが、伝わったかどうか車道を歩いていった。
交差点に戻って予想通り3男が待っていて、ここから6人そろってホテルに向かってガヤガヤ言いながらホテルに歩いて帰った。
食事前に幹事さんから各人にランニングウオータのペットボトルが配られた。駅伝名門校の広島県世羅高が土地の梨農家などと共同開発したスポーツドリンクとのことで、梨の甘味いっぱいのさらっとした(世羅っとした)味の良いドリンクだった。みんな世羅高の卒業生、母校を思いながら味わった。銀座にあるアンテナショップで買って来たとのことだったが、こんな重いものまで運んできてくれた幹事さんに頭が下がる。
制限時間になって食事を終え、幹事さんの部屋に集まって、2次会で思い出話に花を咲かせていた時、末弟夫人が入ってきて「遅くなりました」と御挨拶、お仕事ご苦労さまでした。
2日目へ 今日は朝からジャンボタクシに乗って一日中箱根観光をする予定になっていた。実際の行程は運転手さんの好意もあって次のようになった。 熱海ホテル8:35 = 9:00十国峠 = 9:10箱根峠 = 9:10展望所9:15 = 9:20箱根峠 = 9:30海賊船9:35 = 10:10大湧谷10:15 = 10:25ビジタセンタ11:00 = 11:30浜松屋12:00 = 12:25箱根湯本 = 12:40宮ノ下 = 12:55仙石すすき原 = 13:20宮ノ下富士屋ホテル(昼食)14:30 = 14:50杉並木 = 15:10十石峠 = 15:25菓子の木15:30 = 16:00熱海ホテル(泊)
発車すると、熱海市街を走っている時から色々と話をしてくれる。ガイドさんを兼ねた運転手さんだった。
箱根峠交差点からすぐのところに石畳の細い道があり、これが昔の東海道で大名行列もここを通ったとのこと。殿様を載せた駕籠を守って大勢の家来たちが連なってこんな狭い坂道を歩くのは大変なことだったろうな。
年末に行われる全国高校駅伝のことを知っているか運転手さんに訊いたがご存じなかった。京都で行われる高校駅伝はこの辺りでは余り話題に登らないようだった。「広島県の世羅高は全国高校駅伝大会で何回も優勝したことのある駅伝名門校で、この4人兄弟はみんなこの世羅高の出身なんです。」と自慢がてら紹介しておいた。
畑宿の本陣は屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡です。家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。小規模ながら旧街道に日本庭園として他に無かったようです。
畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落で、郷土の伝統工芸「箱根細工」が生まれ育ったところです。 畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。 江戸時代畑宿は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足を止めました。 安政4年(1857)11月26日、米国初代領事で伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここに休憩鑑賞しました。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。 下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受ける際、ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否して関所側とトラブルを起こしてしまいます。 下田の副奉行が中に入って、ハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることを提案し、関所側は妥協しました。 ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通り、そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。 明治天皇 明治元年十月八日明治天皇が東京遷都の御途次や翌年皇后の京都還幸の御途次等で小休ならせらした聖跡です ついでに浜松屋の宣伝文句 寄木細工見える工場浜松屋
箱根の畑宿で伝統を継承して二百有余年。 天然木材の豊かな色彩と木目を活かしながら寄せ合わせ、精微な幾何学文様を作りだす箱根寄木細工。そしてミシン鋸で精巧に挽き抜き、絵画や図案を嵌め込んで表現する箱根木象嵌。全国に残る数少ない伝統工芸士が、匠の技と心を込めて浜松屋独自の製品をお作りしています。 案内された部屋に入ると、職人さん(失礼名工さん)はでんと座って細い木切れを手に持って「これから木象嵌を造ります」といって説明と作業を始めた。材料は色合いによって、いちい、まゆみ、えんじゅ、くわのき、など色々な木を使うとのこと。5角形に切りだされた色々な色をした細長い木片を巧みに束ね貼りあわせて綺麗な幾何学模様の角棒を作り上げた。実際はこの角棒を更に組み合わせて更に複雑な模様の大きな角棒を作り上げ、この塊を大型のカンナで薄い紙のように削り出す。
店の方には寄せ木細工の帯や草履、木象嵌の箪笥や菓子器など]いろいろ見事な製品が並んでいた。思い出にみんなそれぞれコースターやお皿、夫婦箸、箸置きなどを買っていた。
須雲川を渡って対岸側をどんどん進むと早川を渡って国道一号に合流、左の北に曲がると箱根湯本の街に入り「はつ花本店」の看板がかかる古びた店があり、長い行列が出来ていた。ここは水を一切使わず、そば粉、自然薯、卵だけで作る自然薯蕎麦で人気なのだという。
更に早川沿いを西走、大平大温泉を過ぎると宮の下の温泉街に入り、目の前に昼食を予約してある富士屋ホテルが見えてきた。運転手さんは予約時間にまだ1時間近くあるから仙石原のすすき原を見に行きましょうと言ってそのまま北上、宮の下から国道1号は左に曲がって芦ノ湖畔の元箱根に向かうので、早川沿いの道は国道138箱根裏街道になる。
最高点から芦ノ湖近くまで下ると石畳みの道が見え、箱根峠で見たとは違うように見えた。
運転手さんから「どこか途中で立ち寄りたいところはありませんか」末弟夫人が菓子の木でダクワーズのお土産を買いたいとお願いし、来宮駅前の駐車場に入った。
来宮駅から熱海海岸に向かう途中の大湯間歇泉を案内して詳しい説明をしてくれた。 「大湯間歇泉」は、古くからの世界的にも有名な間歇泉で、激しい勢いで湯気を吹き出して、地面が揺れるほどだったそうです。 明治中頃から次第に減少し大正終りには完全に止まってしまい、昭和37年から市の文化財として保存されています。
「史跡 大湯間歇泉跡」の碑の後上に「オールコックの碑、愛犬トビーの墓」の名板があってその前に二つの碑が立っていた。 オールコックはイギリスの初代駐日大使で、富士登山の途中熱海を訪れた際、愛犬トビーが大湯の熱湯に触れて死んでしまったとき、地元の人たちがトビーを手厚く葬ったことにに感激し、イギリスに帰国後このことを紹介したので、イギリス人の日本人に対する見方が変わったそうです。
この後、タクシは熱海海岸にも回って貫一お宮像など見せてくれたが、親切な運転手さんに「昨日見に来ました」とはだれも言いだせなかった。
3日目へ 三日目は熱海のMOA美術館での芸術鑑賞。美術も三男の得意とする所、先輩の建築家が設計した美術館で自分でも満足な出来だったと推奨しておられたとのこと。 熱海駅のロッカーに大きな荷物を預けてタクシに乗って10分ほどの高台にあり、駐車場から見ると、玄関だけが大きく目立って後はすぐ山でそれほど大きな美術館には見えなかった。
美しい円天井の下で記念写真をパチリ。
もう一枚は多分五階から熱海市街と相模湾を撮ったもの、すぐ下に見える彫刻が飾られた石造りの広場は入口からは見えなかったので三階の前庭かも。ここは山の上に立つビルの窓だが山の上の奥に建っているので一階の駐車場などは何も見えず、当然下からも見えなかったわけだ。
天正14年(1586)正月、豊臣秀吉が時の天皇、正親町天皇に茶を献じるために、京都御所内の小御所に組立式の黄金の茶室を運びこみ、黄金の道具を用いて茶会を行ったという史実に基づいて復元制作したものです。秀吉は、この黄金の茶室を、天正15年の北野茶会に用い、天正20年には朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣した折、大阪より運ばせ茶の湯を行ったことが知られ、大阪城落城とともに消滅したと考えられています。黄金の世とも呼ばれた絢爛豪華さと、閑寂な侘数寄という対照的な諸相を見せる桃山時代の美意識を再見ください。
その横には屋根もついた能楽堂があり、前には座席も並んでいるので実際の能舞台が行われることもあるらしい。HPには 優れた伝統芸能を紹介する目的で設置したものです。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)の入母屋(いりもや)造、舞台は総檜造りで、鏡板は日本画家・松野秀世氏が描いたものです。観世、宝生、金春、喜多の諸流による定期的な演能会を開催しています。目付柱、ワキ柱は脱着可能で、音楽会や美術講座等の講演会など多目的に活用できます。同時通訳の設備もあり、国際会議にも利用できるように設計されています。
3階には全国児童作品展の児童画の展示もあり、今の子供は芸術的な絵を描くもんだと感じ入った。
三階の裏から外に出られて、そこは広い日本庭園になっているようだった。小雨模様だったので、出口に置いてあった傘を借りてさし、石段と木の門を2度通ると、古い長屋の様な建物が建っていた。
尾形光琳が自ら描いた図面と大工の仕様帖、茶室起し図が含まれる小西家文書と呼ばれる資料(重文)に基づき、数寄屋建築研究の権威、堀口捨巳博士の監修により復元した屋敷です。光琳は、正徳2年(1712)頃に京都の新町通り二条下ルの地に屋敷を建て、最晩年の5年間を過ごし、2階の絵所(アトリエ)で光琳晩年の最高傑作、国宝「紅白梅図屏風」を描いたと考えられています。
間口7間半、奥行13間ほどの敷地に、建坪約90坪の数寄屋造で、江戸時代の町屋建築を伝える貴重な資料です。 屋敷内には5畳半と3畳の茶室が設けられています。3畳の茶室は、光琳の号「青々」にちなんで「青々庵」と名付けられ、扁額は日本画家・奥村土牛氏によるものです。
備前池田藩の筆頭家老、伊木忠澄(1818〜1886)は、晩年三猿斎と号し、茶の湯三昧の余生を送り、岡山の荒手屋敷には20に余る茶室が設けられていました。この茶室は、そのうち「大爐の間」と呼ばれた茶席を移築したものです。「樵亭」の名称は、この茶室の襖絵に、当館が所蔵する「樵蒔絵硯箱」伝 本阿弥光悦(重文)の蓋表にある樵夫と同様の図案が描かれていることにちなんで名付けられました。
樵亭前を過ぎると竹林の傍を通る舗装道に出た。竹林の向こうには美術館の建物が見えたので、先ほど歩いた道なのだろう。先導者について歩くだけなので覚えていない。
竹林の後に美術館への石段があって、入口で傘を返して無事美術館に戻った。
エスカレータに乗って下りたが、最後の階だけ階段を歩いて下りて見たが、何とか歩けてみんなに迷惑かけないでよかった。
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